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ほな、今日は30分で哲学の全歴史をまとめて説明していくで。もしも誰かに哲学者の名前をポンポン出されて、どないしたらええかわからんようになっても大丈夫や。この要約を理解して、哲学の物語を覚えてしもたら、どんな名前が出てきても、今まで聞いたことがなかったとしても、その人物をどこに位置づけたらええかわかるようになるんや。
もう二度と不意打ちを食らうことはないで。哲学の全歴史を知って、それをどう理解したらええか、そして出会う哲学者がどんな人物であっても、どこに位置づけたらええかわかるようになるんや。
ワイはよく哲学の知識に圧倒されてしまうんや。人々が哲学者の名前やアイデアをスラスラ言うのを聞いとると、自分がアホみたいに感じてしまうんよ。ショーペンハウアーやハイデガーの話が始まったら、「え、え…」ってなってしまうわけや。
大学で何年も哲学を教えとったのに、まだ自分の哲学の知識に自信が持てへんのやけど、知らん哲学者の名前が出てきても、ワイの基本的な哲学の物語の概念を使えば、いつも理解できるんや。
これはすごくシンプルな物語で、脚注や引用なしで説明できるんや。この簡単な物語を覚えられたら、6つの言葉で構成されとるんやけど、知らん哲学者や難しい哲学者の名前が出てきても、どこに位置づけたらええかわかるようになるで。
哲学には3つの基本的なカテゴリーがあって、これらのカテゴリーが6つの重要な言葉を構成しとるんや。哲学の全物語を理解するのに必要な言葉やねん。そのカテゴリーってのは、形而上学、認識論、価値論なんや。
これらの言葉ってどういう意味なんやろか。すべての哲学的概念は、この3つの領域のどれかに入るか、これら3つの言葉を何らかの形でお互いに関連づけとるんや。
形而上学は究極の現実を研究するもんや。物理学が物質世界の真実を研究するんやったら、形而上学は非物質的な世界、つまり物質世界に形を与え、秩序づけるものを説明する方法なんや。
例えば、魂が存在するという主張は形而上学的な主張やね。もっと基本的に言うと、世界が論理の法則に従って存在するという主張も形而上学的な主張や。形而上学は究極の現実を研究するもんやから、単に物質的なものだけやなく、物質世界が存在できる条件も説明するんや。
認識論は知識を研究するもんや。認識論は、我々が何を知ることができるか、どうやって物事を知ることができるか、そして知ることの正しい方法と間違った方法を研究するんや。
例えば、論理と証拠は2つの認識論の形やね。これらを組み合わせると、科学的方法になるんや。誰かに「お前、非合理的やで」って言われたら、それは認識論的な非難やねん。
無神論は形而上学的な主張や。「神は存在しない」というわけやからな。一方で、不可知論は認識論的な主張や。「神が存在するかどうかは知ることができない」というわけやからな。これが神の問題に関して、形而上学と認識論をどう区別するかっていう例やね。
形而上学は究極の現実、認識論は知識の研究、そして価値論は価値の研究なんや。価値論の中には、美しさと醜さを研究する美学や、正しさと間違いを研究する倫理学といったサブ分野があるんや。
形而上学や認識論が白黒はっきりしたカテゴリーなのに対して、価値論的な現実は程度で測ることができるんや。
魂が存在するという形而上学的主張は、真か偽かのどちらかやけど、「この絵は美しい」とか「もっと頑張るべきやった」という価値論的主張は、相対的で程度の問題なんや。
すべての哲学的アイデアは、形而上学的か認識論的か価値論的か、それともこの3つを何らかの形で関連づけとるんや。
これが最初の3つの言葉や。形而上学は究極の現実の研究、認識論は我々がどのように知るかの研究、つまり知識の研究、そして価値論は価値の研究で、美しさと醜さを研究する美学や、正しさと間違いを研究する倫理学を含んでるんや。
次の3つの言葉は、哲学の物語の基本的な6つの言葉を構成する2番目のセットやねん。それは前近代、近代、ポスト近代や。これらは形而上学、認識論、価値論を関連づける3つの方法なんや。
前近代は、すべての哲学的思考を形而上学的主張から始めるんや。これが前近代ってもんや。これは一種の世界観、世界観のカテゴリーやね。前近代の中にも複数の世界観があるんや。認識論は、前近代では形而上学的現実の性質によって決定されとったんや。
例えば、最初の哲学者たち、ソクラテスの直前にいた前ソクラテス派の哲学者たちは、紀元前7世紀から6世紀に「すべては水である」とか「すべては火である」といった、とても基本的な世界についての主張をしたんや。
彼らがこういう言葉で言いたかったのは、形而上学的なことやったんや。文字通り我々が今すべて火の中にいるってことを言いたかったわけやないんや。火が流動的なのと同じように、世界全体が流動的で、変化が実在で、秩序は幻想やって言いたかったんや。
前ソクラテス派は基本的に2つの学派に分かれとって、ミレトス派とエレア派やったんや。ミレトス派は世界の無秩序と混沌を強調して、エレア派は世界の秩序と一体性を強調したんや。
そういうわけで、ミレトス派は世界の形而上学を混沌としたものと見てたから、適切な認識論として感覚経験を強調したんや。一方、エレア派は世界の秩序を強調して、変化が実在するということさえ否定して、適切な認識論として理性を重視したんや。
ミレトス派の哲学は変化、つまりメタボレーを強調したんや。彼らの哲学は基本的に世界が変化の中にあるということやった。エレア派の哲学は統一性、つまりロゴスを強調したんや。メタボレー対ロゴスってわけや。
そこにソクラテスが登場して、現実についてもっと大きな、もっと良い質問をするように世界に教えたんや。「正しいことは何か」って聞くんじゃなくて、哲学者は「善とは何か」「正しさとは何か」って聞くべきやって。
ある意味、ソクラテスは世界にメタ的に考えることを教えたんや。つまり、我々が普段使っとる概念の背後にある非物質的な現実を考えるようにってことや。
ソクラテスは、例外なく普遍的に適用できて、正当化できる重要な現実の概念を追求したんや。
ソクラテスの弟子のプラトンは、このメタ的に考えるという考えを世界全体に適用したんや。エレア派と同じような考え方で、物質世界は理想世界よりも実在性が低いって主張したんや。実際、本当に実在するのはアイデアの世界だけやって。
物質世界は理想世界の影にすぎんのや。アイデアは腐敗せず、変化せず、固定されとるけど、物質世界は消えてなくなるからな。プラトンはこれらのアイデアを「形相」って呼んで、我々は理性を通じて、つまり心の中でそれらを考えることで、この形相の世界にアクセスせなあかんって主張したんや。
正しく推論することが、実在の世界に生きるために必要な道やって。
プラトンの弟子のアリストテレスは、プラトンに反論したんや。アリストテレスは、プラトンが言うとった形相、ギリシャ語でモルフェーって言うんやけど、それらが別の現実に存在するんやなくて、物質的なもの自体の中に存在するって主張したんや。
言い換えれば、形而上学的世界はただ上にあるんやなくて、実際にここにも、物事そのものの中にもあるってことや。物事そのものが形而上学的で、形而上学の影なんかやないってことや。
例えば、人間の形而上学、人間の本質は、人間が理性を通じて自分自身を合わせるべき抽象的なアイデアなんやろか、それとも人間が最高の自分になるために果たさなあかん内在的な可能性なんやろか。
プラトンやったら、人間という理念は人間が自分自身を合わせるべき形相やって言うやろうけど、アリストテレスやったら、人間は形相と質料の両方を含む実体で、その最大の可能性を果たすために適切な行動を指示するもんやって言うんや。
アリストテレスの形而上学的な転換は、彼が倫理学を見る方法を変えたんや。アリストテレスにとって、倫理的に行動するっていうのは、ソクラテスやプラトンが主張したような抽象的な正義の形相に自分を合わせることとは考えられへんかったんや。
その代わりに、アリストテレスにとって倫理学は、人間の本性に本質的に適合する特定の徳のバランスのとれた表現として考えられたんや。
例えば、危険に直面するっていう行為を考えてみよか。危険から逃げ出すんやったら、それは臆病で、悪徳やね。でも、戦術的や戦略的に考えずに常に危険に突っ込んでいくのも、愚かさやね。
つまり、一方に臆病があって、もう一方に愚かさか無謀さがあるわけや。でも、逃げ出すんでもなく、突っ込むんでもなく、戦術的・戦略的に危険に立ち向かうのがバランスが取れとって、だから徳なんや。
アリストテレスは、形而上学が人の中に存在すると信じとったから、人々がなぜ正しく行動すべきかを支配する方法が違うんや。抽象的なアイデアに自分を合わせるんやなくて、バランスのとれた方法で正しいことを果たすんや。
キリスト教は誕生の時からかなりプラトン的やったんや。プラトンの抽象的な形相の考え方が、ユダヤ・キリスト教の神の本質の不変性についての話とよく合ったからな。ネオプラトン主義とキリスト教の間には幸せな結婚があったんや。
プラトン的な言葉は、初期のキリスト論の議論にもよく役立ったんや。バランスの取れたキリスト論を明確に表現し始めたときにな。アウグスティヌスを通じて、プラトンはその後1000年間、キリスト教の教義の支配的な構造になったんや。
プラトンが世界の一体性、世界の秩序を本当に強調したのと同じように、アウグスティヌスは三位一体の三性よりも一性を強調したんや。他にもたくさんの類似点があったんやけどな。
1000年後、アリストテレスの著作がイスラム教によって保存されとったんやけど、それが西洋に戻ってきたんや。トマス・アクィナスっていう哲学者が、特に有名にアリストテレスをキリスト教を明確に表現するための枠組みとして使ったんや。
アリストテレスの実体についての洗練された概念、さっき話したように物の中にあるっていう考え方は、キリスト教の教義を抽象の領域から出して、キリスト教の霊性と物質性についてもっと洗練された定式化を始めることを可能にしたんや。
だからこそ、アリストテレスはサクラメントについての全体的な議論を生み出したんや。同じ場所、同じ実体の中に霊的なものと物質的なものが共存することを説明しようとしたからな。
これらの哲学者たちは全て、前ソクラテス派からソクラテス、プラトン、アリストテレス、初期教会、そしてトマス・アクィナスまで、前近代的な構造を共有しとるんや。彼らは全て前近代主義者や。なぜかっていうと、最初に形而上学的世界の性質を仮定して、その後で認識論がその形而上学にどう合うかを問うからや。
そこから前近代から近代へ移るんや。近代は形而上学よりも認識論を優先するんや。これは歴史的に認識論的転換って呼ばれとるんや。なぜかっていうと、形而上学を基礎にするんやなくて、認識論を下に置いて形而上学の前に持ってくるからや。
この認識論的転換は、時々歴史的に啓蒙主義って呼ばれるんや。啓蒙主義は、実体や形相について思索するんやなくて、自分で考えることって定義されとるんや。近代主義は啓蒙主義の形で、哲学が本当に方法について主に考え始めた時期なんや。究極の現実についてはそれほど考えへんかったんや。
この認識論的転換は、17世紀のルネ・デカルトっていう哲学者から始まったんや。デカルトは全ての形而上学的知識を疑ったんや。「何かを確実に知るためには、全てを疑うしかないんやないか」って考えたんや。そして、この疑いの果てに何が残るんやろか。
単純な証明として、疑うことさえも思考やってことに気づいたんや。デカルトは、全てを疑っても、まだ考えとるってことは、思考の行為は疑えへんってことやから、人間の心は存在するって推論したんや。
これが疑いの基礎や。そして、デカルトは宗教的や形而上学的な思索なしに、論理を使って完全な哲学的構造を構築したんや。前近代が「私は存在する、だから私は考える」っていう形で世界を考えとったとしたら、これは形而上学的主張やけど、デカルトはこれを全部ひっくり返したんや。
「私は考える、だから私は存在する」って言ったんや。なぜかって、思考は自分自身の証明やからな。
そして、18世紀の哲学者デイヴィッド・ヒュームが登場して、デカルトの徹底的な疑いをさらに一歩進めたんや。ヒュームは印象とアイデアの間に重要な区別をしたんや。印象は世界の経験や。
例えば、ビリヤード台の上で8番の球を見たら、その8番の球が私の心に印象を残すわけや。同じテーブルの上でキューボールを見たら、そのキューボールも別の印象を私の心に残す。
誰かがキューボールを8番の球に当てて、8番の球が動くのを見たとするやろ。ヒュームは、キューボールと8番の球の関係に因果関係っていうアイデアを我々が押し付けとるって主張したんや。
ヒュームの見方やと、キューボールと8番の球が実在すると信じるのは正当化されとるんや。なぜかって、それらが直接私の心に印象を残したからや。でも、キューボールが8番の球を動かしたって知ってるって言うのは正当化されへんのや。
なぜかって、因果関係は世界の中の物体やないから、私の心に印象を残せへんからや。我々の知識が正当化されるのは、心に印象を残すものだけなんや。印象による知識だけが確実な知識になり得るんや。
ヒュームはまた、道徳性をアイデアとして分類して、印象としては分類せんかったんや。そして有名な「である」から「べきである」は導き出せへんって宣言したんや。形而上学から倫理学は導き出せへんのや。そんなことはできへんのや。
言い換えれば、裸の物質世界から拘束力のある道徳的概念を導き出すことはできへんのや。
デカルトの哲学は合理主義って呼ばれとるんや。なぜかって、近代的な理性の概念に基づいて全体の世界観を構築してるからや。つまり、知る方法としての理性が、全ての正当化された知識の基礎やってことや。
ヒュームの哲学は合理主義やなくて経験主義って呼ばれとるんや。なぜかって、近代的な経験の概念に基づいて全体の世界観を構築してるからや。つまり、知る方法としての経験が、全ての正当化された知識の基礎やってことや。
そして、ヒュームの数十年後にイマヌエル・カントっていう哲学者が登場したんや。カントはデカルトの合理主義とヒュームの懐疑主義を調和させようとしたんや。
カントは、物自体の世界と現象界っていう区別をせなあかんって主張したんや。物自体の世界は、世界が本当にあるがままの世界を表してるんや。デカルトのアイデアの世界やな。そして現象界は、我々の知覚の中に存在する世界を表してるんや。ヒュームの印象の世界やな。
例えば、もし森で木が倒れて、誰もそれを目撃せんかったら、何か起こったんやろか。物自体の世界では、はい、起こったんや。現象界では、いいえ、何も起こってへんのや。
我々は現象界にしかアクセスできへんのやけど、我々の心の中には超越論的っていう仕組みがあって、これが物自体の世界を我々のために翻訳して、映画のプロジェクターみたいに現象界を我々の知覚に映し出すんや。
カントが提唱する超越論的なものが我々の心の中で働いてるのを、別の比喩で考えてみよか。ソーセージメーカーみたいなもんやと思ってくれたらええ。物自体の世界がソーセージの生の材料で、現象界が加工されて包装されたソーセージリンクやと想像してみてな。
スーパーに行って、ラベルにこのソーセージは最高品質の豚肉で作られてて、オーガニックやって書いてあるのを読んだとするやろ。そこで、ソーセージが本当にオーガニックで、全ての材料が高品質かどうか確認するためにソーセージ工場を訪れようとするんやけど、セキュリティーや衛生上の理由で入れてくれへんのや。
でも、それは理解できるよな。なんでランダムな人間をソーセージ工場に入れるんやって。そこで、ソーセージ会社を信じることにするんや。
カントは、超越論的なものに対しても同じ態度を取るべきやって主張したんや。我々は世界が本当にどうなってるかについて正当化された知識を持つことは決してできへんのや。我々は決して自分の心から逃れることはできへん。ソーセージ工場に行って、我々の世界の経験が実際の世界と一致してるかどうかを確認することはできへんのや。
我々が持ってるのは経験だけや。そういう意味で、デカルトに対するヒュームの批判は正しいんや。我々が持ってるのは感覚経験だけやからな。でも、超越論的なものが現象界の形で我々に与えるものを、実用的に真実やと信じるべきなんや。
だから、我々の現象界についての主張が物自体の世界に当てはまるかどうかは認識論的に正当化されへんかもしれへんけど、論理の法則が全ての人の心を支配する共通のルールを確立できるって実用的に仮定するのは正当化されとるんや。だから、人間は当然のこととして受け入れてもええんや。
カントは同様に、ヒュームの道徳的危機、つまり「である」から「べきである」に移れへんっていう問題を、定言命法っていうものを提案することで解決しようとしたんや。
定言命法っていうのは、道徳法則が普遍化できるなら拘束力があるっていう考え方や。例えば、嘘をつくこと、つまり意図的に他人を欺くことは、絶対的に間違ってるんや。なぜかって、もし全ての人が常に嘘をつくなら、真実を語るっていうことはなくなって、だから嘘をつくっていうこともなくなってしまうからや。
だから、嘘をつくことは道徳的に間違ってるべきなんや。なぜかって、それを普遍化すると、その概念自体の可能性を破壊してしまうからや。同じことが不倫や殺人、さらには同性愛にも当てはまるってカントは主張したんや。
そして19世紀に登場したゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルっていう哲学者がカントを批判したんや。ヘーゲルの基本的な批判は、カントの物自体と現象界の区別が、実際にはデカルトとヒュームの意見の不一致を解決せずに、むしろその緊張を強めてて、我々にとってさらに問題があるってことやったんや。
人々を現象界に閉じ込めて、物自体の世界、つまり実在の世界についての正当化された知識から締め出してしまうからや。
ヘーゲルは、究極の現実が合理性を通じて世界に自らを知らしめるって主張したんや。でも、その知らしめ方がヘーゲル独特なんや。
ヘーゲルは、合理性が弁証法を通じて、物自体の世界を我々の世界に徐々に導入するって主張したんや。これはどういう意味やねん。
これは、人類の一世代が特定のアイデアを持つかもしれへん。そのアイデアは世界がどう機能するかについての命題って呼べるかもしれへん。そして次の世代が反抗して、対立するアイデアを思いつくんや。そのアイデアは反命題って呼ばれるんや。
だから、最初の世代から命題があって、2番目の世代から反命題があるわけや。そして3番目の世代が2番目の世代に反抗して、両方の命題の強みを合わせた総合を提案するんや。
そして、命題、反命題、総合があるわけや。そして4番目の世代が3番目の世代に反抗して、3番目の世代の総合が新しい命題になって、4番目の世代が反命題を提案するんや。そして5番目の世代が4番目の世代に反抗して、新しい総合を提案する。
こうやって命題、反命題、総合、命題、反命題、総合って続くんや。これがヘーゲルの言う弁証法ってもんや。そしてこれがずっと続くんや。
これはヘーゲルの中では合理的弁証法って呼ばれとるんや。純粋理性は、ある意味で未来の現実で、弁証法を通じて我々を引き寄せとるんや。ブラックホールみたいにな。理性は避けられへんもんで、弁証法は我々を前に押し進めとるんや。
我々の前に、未来に、完全に合理的な時間と場所があって、そこに向かって我々を推し進めとるんや。人類は避けられず、止められずにどんどん合理的になっていくんや。そして理性を通じて世界は救われ、最後の日には全ての個人が同じ方法で考え、同じ視点を持ち、同じ意見を持つようになるんや。
そうなったら、物自体の世界と現象界は同一になるんや。でも、ヘーゲルによると、我々は今日完全に合理的やっていう考えに抵抗せなあかんのや。なぜかって、今日我々が教条的に正しいって示唆するのは、反命題が来ることはない、我々の信念は決して偽になることはないって罠に陥ることやからな。
それは前近代の誤りに陥ることなんや、ヘーゲルの見方やとな。
ヘーゲルは、キリスト教が物自体の世界の最も合理的な表現やと考えたんや。そういう理由で、我々は皆キリスト教徒になるべきやって。でも、原則として、将来それが乗り越えられて反命題が出てくるっていうことを心に留めとかなあかんのや。だから、開かれた心で持っとくべきなんや。
ヘーゲルは、人類が宗教的な状態で生まれて、これが最初の命題やって考えたんや。そして、客観的な倫理的思考によってその状態から解放されて、いつかは単なる倫理的思考から純粋な美的享受の至福へと、合理的弁証法によって救われるって考えたんや。
つまり、人類は宗教的な状態から始まって、倫理的なものに移って、そして美的なものに移るって言うとるんや。これは人類の伝記やねんけど、同時に各人の伝記でもあるんや。
人が自分自身を啓蒙する方法は、倫理的思考を通じて宗教的なものから自分を解放し、そして倫理的思考から美的思考へと自分を解放することなんや。
美的なものがもはや倫理を必要としなくなる理由は、みんなが同じように考えるようになったら倫理は必要なくなるからや。理性が我々を皆一緒にするんや。
このようにヘーゲルは、世界が3つの行為で展開していくのを見たんや。それは全ての人が自分で歩むべき道でもあるんや。馬鹿で宗教的な状態で生まれて、倫理的な状態に成長して、理性を通じて実存的な至福を達成することを学ぶんや。
ヘーゲルは2つの運動を生み出したんや。彼の擁護者と批判者や。擁護者は、世界がより同質的な方向に進むべきやと信じたんや。全ての個人が最終的に単一の視点に溶け合って、全てが同じになって、個性はもはや重要やなくなるって。
明らかに、ヘーゲルはこういう意味でマルクス主義の根源なんや。ヘーゲルを批判する人たちは、個性が合理性の本質やと考えたんや。個人であることが合理的であることの還元不可能な要素やって。
本質的に、ヘーゲルの批判者たちは、ヘーゲルを合理性の反対やと考えたんや。この批判を最も有名に代表したのがセーレン・キェルケゴールやった。
キェルケゴールは、ヘーゲルが世界と人間の人生の3つの行為を正確に逆順に考えとるって主張したんや。キェルケゴールは、美的享受が人間の存在の洗練された最高の段階やないって主張したんや。
むしろ、それは赤ちゃんの精神状態や。よだれを垂らして美的な至福の中にいるような状態やな。自分の心の中では正しいと思ってるんやけどな。
そして人間は美的な幼児期の段階から抜け出して、倫理的な段階に入るんや。そして最高の段階、宗教的な存在様式に達するんや。これはヘーゲルが主張するような幼児期の段階やなくて、最も洗練された段階なんや。
宗教的な状態っていうのは、個人として神と真正面から出会う状態なんや。その状態で、神が自分に対して何をしようと権利があるって認識するんや。
キェルケゴールが本来性って呼ぶこの個性の状態でのみ、人は合理的で倫理的になれて、世界の真の美しさを適切に祝福できるんや。自分にはそれを受ける資格がないものとしてな。
この実存的な時代では、道徳原則が相対化されてしまったんや。ヘーゲル主義を通じてカントを拒絶することで、ヒュームの格言「である」から「べきである」は導き出せへんっていうのが世界に取り憑いてしまったんや。
人類は、ソクラテスが何千年も前に擁護したような、善の普遍的な概念を正当化できない近代主義的な世界観の潜在的な結果について考え込んでしまったんや。
そして我々は、形而上学を優先する前近代主義から、認識論を優先する近代主義へ、そして今やポスト近代主義へと移ってきたんや。ポスト近代主義は形而上学的なものでも認識論的なものでもなく、価値論的なものを前面に押し出すんや。
ポスト近代主義はヘーゲル的実存主義に根ざしとったんやけど、ホロコーストによって存在に突き動かされたんや。エマニュエル・レヴィナスやマルティン・ブーバーのような多くの哲学者たちは、ナチス党を啓蒙主義の必然的な結果の代表やと見たんや。
彼らは、近代主義が形而上学的現実を見ることができないこと、世界から魔法が解けてしまったことが、ナチスにユダヤ人を非人間化することを許したって考えたんや。ナチスは、実際には政治的な力を得ようとする試みを隠蔽するための合理性の神話に縛られとったんや。
これはカント主義の産物である、物自体の世界を完全に見失うことの必然的な結果なんや。だから、哲学には21世紀にもう一つのホロコーストを防ぐために2つの選択肢があったんや。
前近代主義に戻って、魂のような形而上学的価値を認めることで人間に尊厳を与えるか、形而上学を完全に放棄して価値論を前面に押し出すかや。つまり、隣人に対する倫理的責任と世界的な正義の追求を前面に押し出すんや。
そうすると、認識論は単にその正義の追求を擁護し強化するための道具になるんや。このように、ポスト近代主義は常に真理主張の背後にある意図を探るんや。
ポスト近代主義は、客観的真理への主張を、他人に世界の見方を押し付けて従わせることで力を得ようとする隠れた試みやと見るんや。なぜかって、カント以降の世界では、物自体なんてものはないからな。
我々が持ってるのは知覚だけや。だから、我々の周りの人々を守るためには、形而上学的な根拠なしに、各人の人間の尊厳を前面に押し出すしかないんや。完全な世界的平等への倫理的義務を前面に押し出して、その後で世界を理解しようとするんや。
ここで認識せなあかんのは、ポスト近代主義は我々が客観的真理にアクセスできないっていう主張を始めたわけやないってことや。それはカントやったんや。カントが物自体の世界と現象界の区別を強化したんや。
この2つの世界の関係が壊れるために必要やったのは、カントが仮定した超越論的なものを疑うのに十分な出来事が起こることだけやったんや。ソーセージメーカーを疑うようになることだけやったんや。その出来事がホロコーストやったんや。
一度、信頼できる超越論的な媒介なしに現象界に閉じ込められて、物自体の世界が我々に伝えられへんようになって、人々が人間の尊厳が存在しないかのように行動し始めたら、我々は主観性と倫理的絶対性に縛られてしまうんや。
このように、哲学の仕事は世界的な正義を確立することになったんや。人々が真理を放棄したがったからやないんや。デカルト、ヒューム、カントを通じて、人々が形而上学に盲目になったからや。
だから、全ての哲学的問題の最も底辺に存在する必要な神学的基礎に盲目になってしまったんや。ポスト近代主義は、相対主義を熱心に追求するものやないんや。まあ、一部の集団ではそうなってるかもしれへんけどな。
でも本当は、無制限の啓蒙主義的近代主義が世界にもたらした倫理的被害を最小限に抑えようとする必死の試みなんや。
今日、我々は本当にポスト近代の時代にいるんやなくて、競合する近代性の時代にいるんや。人々は形而上学的世界に再び魅了されたいと思っとるけど、それができへんのや。
人々は物質主義以上のものを求めてるけど、それを手に入れることができへんのや。なぜかって、近代性の構造は認識論から始めることを要求するからや。
あるいは、もっと悪いことに、正当化されてない価値論を前面に押し出すことを要求するポスト近代性やからや。これは形而上学を正当化することを決して許さない根本的な疑いの原則を指示するんや。
じゃあ、我々はどっちの方向に行くべきなんやろか。どうやったら世界に再び魅了されることができるんやろか。我々は皆、前ソクラテス派に戻って、最初からやり直すべきなんやろか。「全ては火や」「全ては水や」って主張し始めるべきなんやろか。
もちろん、そうやないんや。ユダヤ・キリスト教の世界観が強調してるように、形而上学から始める唯一の方法は、形而上学的世界について思索することやなくて、形而上学的世界が実際にあなたに手を差し伸べてくることなんや。
キリスト教徒は歴史的に、この形而上学的接点を啓示って呼んできたんや。神が実際に物質世界に降りてきて、神自身の証しを受け入れる人々に自らを現すんや。
哲学と神学の関係について、そして哲学が我々の文化的瞬間にどのように影響を与えとるかについて、もっと多くのことが言えるやろうな。でも、この要約をできるだけ短くするために、啓示の教義はこの包括的な調査を締めくくるのに良い場所やと思うわ。
ほな、これで哲学の全歴史の包括的な調査は終わりや。
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