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普通、博士号や修士号の論文を書くんは、科学者のキャリアの最初の一歩やねんけど、まれに学生が初っ端からホームラン打つこともあんねん。歴史を振り返ると、学生の論文がその科学分野だけやなく、世界そのものに大きな影響を与えた例がいくつかあんねん。
学生時代の研究で後にノーベル賞を受賞した科学者も何人かおんねん。1900年代初頭にさかのぼって、素晴らしい論文を8つ見つけたから、この動画でその特別な点を紹介したいと思うねん。物理学、数学、化学、天文学、コンピューターサイエンス、生物学と、幅広い分野にわたってんねん。
これらの論文は、学生が学位取得のために何年もかけて行った研究をまとめたもんやねん。修士やったら大体2年くらい、博士やったら3年から6年以上かかることもあんねん。論文は学生の研究成果を全部まとめたもので、専門家のパネルによって評価されんねん。
でもな、これらの論文は若い科学者の可能性を示す輝かしい例やけど、全体像を見せてるわけやないねん。ノーベル賞を受賞するような学生の研究の裏には、才能、決意、指導教官のサポート、そして運が絡み合ってんねん。成功するために、賞を取るような論文を書く必要はないんやで。
実は、論文を全然書かへんかった優秀な科学者もおんねん。そういう例は動画の最後に紹介するけど、まずは史上最高の論文から学べることを見ていこか。
最初の博士論文は、ポール・ディラックが手書きで書いた「量子力学」やねん。1926年5月にケンブリッジ大学に提出されたんや。
きれいな手書きのページもあれば、鉛筆で書いて消した跡のある計算のページもあんねん。ページの隅には、関係なさそうなろうそく立ての絵が描かれてたりもすんねん。ディラックの論文は、量子力学について書かれた最初の論文やった。ハイゼンベルグが量子力学を導入してからたった1年後のことやねん。
当時、ディラックはまだ24歳やったんや。序文でディラックは、「この論文はハイゼンベルグの論文とは少し違う視点からこの理論を発展させたもんや」って書いてんねん。目次を見ると、代数学の公理、中心場における粒子の運動、水素スペクトルの周波数、2個以上の電子を持つ系、量子時間、コンプトン散乱の理論、散乱放射の強度なんかが書かれてんねん。これらは今でも量子力学の教科書に載ってる重要な概念やねん。
論文全体を通して、ディラックは量子力学への新しい数学的アプローチの基礎を築いてんねん。ページの配置はあんまり直線的やないし、正直読みにくいんやけど、ざっと目を通すことはできんねん。ここではディラック・デルタ関数を開発してるみたいやし、後にディラック方程式として知られるようになる考えも見られんねん。これは今では量子力学で最も重要な方程式の1つとされてんねん。
ディラック方程式は量子力学と特殊相対性理論を融合させて、光速に近い速度で動く粒子を記述してんねん。これらのアイデアについて考えることで、陽電子の発見なんかにもつながったんや。1933年には、ディラックはエルヴィン・シュレーディンガーとともに、原子理論の新しい生産的な形の発見への貢献でノーベル物理学賞を受賞したんやで。
次の論文は、天文学史上最も素晴らしい博士論文と呼ばれてんねん。タイトルは「恒星大気、恒星の反転層における高温の観測研究への貢献」で、セシリア・ペインが書いたもんや。1925年にハーバード大学天文台に提出された博士論文やねん。これは星の研究方法だけやなく、星の組成についての知識も変えてしまったんや。
特に、吸収線(星の光を観測したときに残る暗線)が星によって異なるのは、元素組成だけやなく温度の違いによるもんやということを証明したんや。温度が高くなると、星の中の原子がイオン化しやすくなって、吸収スペクトルが変わるっちゅうことを発見したんやね。
でも、これらの発見の重要性にもかかわらず、結婚後セシリア・ペイン=ガポシュキンとして知られるようになった彼女は、最初から注意書きだらけの論文を書いてんねん。天体物理学が若い科学やからか、それとも彼女自身が若い学生やったからか、そのどっちかやろうね。
論文の編集者の注釈では、「熱イオン化の観点から恒星スペクトルを解釈するのは新しいことで、ここで使われてる方法はまだ比較的原始的やっちゅうことを覚えておいてください。だから、ここで発表されてるような研究はすぐに修正や拡張が必要になるやろうと予想せなあかんのです」って書かれてんねん。うわぁ、きついなぁ。
ペイン=ガポシュキンの研究に対するこの不当な疑いのせいで、論文の最大の発見の1つが省かれそうになったんや。スペクトルの研究中に、彼女は太陽がほぼヘリウムと水素原子だけでできてるっちゅう発見をしたんやけど、上級の同僚たちがこの結果は明らかにありえへんって警告したんやて。面目を保つために、ペイン=ガポシュキンは「元素の相対的存在量」っちゅう章にその結果を含めたんやけど、188ページに「この発見はほぼ間違いなく実際のものやない」っちゅう注釈をつけたんや。
幸いなことに、ペイン=ガポシュキンの味方は歴史やったんやね。太陽は実際、ほぼ水素とヘリウムでできてるんや。他の人が信じがたいと思うからって、その発見を削除してたら悲劇やったやろうなぁ。
天文学の論文のためにデータを集めてる間に予期せぬ発見をした科学者がもう1人おんねん。それがジョセリン・ベル・バーネルや。ペイン=ガポシュキンと同じように、バーネルの発見も最初は上級の同僚たちに却下されたんやで。
1968年にケンブリッジ大学に提出した「回折法を用いた電波源直径の測定」っちゅう博士論文で、バーネルはクェーサーっちゅう珍しい天文現象の信号データを集めることに没頭してたんや。これらの信号は、超巨大ブラックホールに渦を巻いて落ち込む物質が熱くなって放出する明るい光なんやね。
バーネルは自分が使ってた電波望遠鏡の建設にも協力してたんや。惑星間シンチレーション配列っちゅう名前やったんやけど。観測中、バーネルと望遠鏡は何マイルものデータを生成して、バーネルはそれを細かく調べて、わずか数年で200以上のクェーサーを見つけたんやで。
ある晩なんか、29メートルものデータを調べたこともあったんやて。そんな中、ある晩、合わない信号を見つけたんや。まさにまたたく電波源っちゅうわけやないし、かといって干渉でもないみたいやった。バーネルは1.3秒間の高周波電波のブリップを発見したんやけど、これはクェーサーの挙動とは合わへんかったんや。
最初、指導教官のアントニー・ヒューイッシュは、バーネルが望遠鏡の設定を間違えたんやろうって思ったんやて。バーネルは「自分が何を話してるか確信が持てるまで、指導教官には話さんかったんです」って言うてんねん。
結局、ヒューイッシュとバーネルは、バーネルが自身の博士論文をクェーサーについて出版したのと同じ年に、この発見をネイチャー誌に発表したんや。パルス状の電波を出す星、今では一般的にパルサーって呼ばれるこの発見で、ヒューイッシュは1974年にノーベル賞を受賞することになんねんけど、バーネルは残念ながら対象外やったんや。
電波信号を特定し、それが本物やって主張したのはバーネルやったのに、若い学生やったバーネルには発見の功績が認められへんかったんや。ノーベル賞はヒューイッシュともう1人の天文学者のマーティン・ライルに贈られたんやで。
後にバーネルは「大学院生で女性やったっちゅうことが、ノーベル賞を受賞する立場を下げてしまったんやと思います」って言うてんね。ノーベル賞は逃したけど、バーネルはその後天文学で素晴らしいキャリアを積んで、2018年には基礎物理学のブレイクスルー賞特別賞をパルサーの発見への貢献で受賞したんや。
この賞金はノーベル賞の約3倍やったんやけど、バーネルはそれを全部物理学研究所に寄付して、女性や少数民族、難民の学生が物理学研究者になるための資金にしたんやで。
コンピューターサイエンスの分野では多くのブレイクスルーがあったけど、次の論文もその1つやねん。でも、1936年に書かれたとは思えへんよな。ENIACみたいなコンピューターの原型ができる10年以上も前に、21歳の修士課程の学生がデジタル計算のロジックの基礎を築いたんや。その学生はクロード・シャノンや。
「リレーおよびスイッチング回路の記号解析」っちゅうタイトルの修士論文で、シャノンは電気回路の動作を制御するためにブール代数を適用する方法を探求したんや。これは後にコンピューターのビットにオン、オフ、ifみたいなバイナリ命令を伝えるロジックになんねん。今でも、この単純な命令が、俺らが使ってる複雑なコンピューティングの基礎になってんねん。
でも1930年代のシャノンには、こんな使い方は想像もつかへんかったやろうね。その代わりに論文では、「この論理は自動電話交換機、産業用モーター制御装置、そしてほぼすべての複雑な操作を自動的に実行するように設計された回路に適用できる」って書いてんねん。
シャノンの研究はノーベル賞の対象になる分野やなかったけど、彼は一般的に情報時代の父として知られてるし、彼の修士論文は史上最も重要な修士論文って呼ばれてんねん。修士課程の後、シャノンは数学の博士課程に進んで、1940年に遺伝学に焦点を当てた論文を書いたんや。
その論文は、最初の論文とは違って、あんまり話題にならへんかったんやけどな。「理論遺伝学のための代数学」っちゅうタイトルで、重要な結果も含まれてたらしいんやけど、シャノンは興味を失ってしまったんやて。その後、暗号学、情報理論、初期の人工知能の研究をしたんやで。
次の論文はめっちゃユニークやねん。何年もかけた研究を説明するために、何百ページもの論文を書く学生もおるけど、数学者のジョン・ナッシュは違うアプローチを取ったんや。1950年、ナッシュはプリンストン大学の博士論文として「非協力ゲーム」っちゅうタイトルの論文を書いたんやけど、なんとたった27ページやったんや。引用文献も2つだけやで。
短くて簡潔やけど、この論文はナッシュ均衡って呼ばれる数学的概念の基礎を築いて、ゲーム理論の基礎の一部になったんや。論文の中でナッシュは、複数のプレイヤーがおる有限のゲーム、例えばポーカーなんかでは、少なくとも1つの均衡点が存在するはずやって説明してんねん。その均衡点では、各プレイヤーが最適な戦略を選んでて、他のプレイヤーの計画を知っても影響を受けへんのやて。
ナッシュの論文で使われてるポーカーの例以外にも、今日ではナッシュ均衡にはいろんな応用があんねん。例えば、ロボットが群衆の中を移動するのを助けたり、戦時中の戦略を分析したりするのに使われてんねん。もしナッシュ均衡を聞いたことがなくても、ナッシュの人生を題材にした映画「ビューティフル・マインド」は知ってるかもしれへんな。
この映画は、1950年代から60年代にかけてナッシュが行った極秘の軍事暗号解読の仕事を描いて、2002年のアカデミー賞で作品賞を受賞したんや。論文で基礎を築いたゲーム理論の研究で、ナッシュは1994年にノーベル経済学賞を共同受賞したんやで。だから彼の論文は短いだけやなくて、めっちゃ影響力があったんや。多分、ページ数当たりの影響力では史上最大やろうな。
2015年には、数学への生涯の貢献が認められて、ノルウェー国王が授与する権威あるアーベル賞を受賞したんや。悲劇的なことに、賞を受け取ってニュージャージーに帰る途中、ナッシュと妻のアリシアが乗ってたタクシーが事故を起こして2人とも亡くなってしまったんや。ナッシュは86歳やった。彼の遺産は数学と経済学を超えて広がってんねん。統合失調症と共に人生の大半を生きた経験から、精神疾患への認識も高めたんやで。
次の論文は、前にも俺のチャンネルで取り上げたことがあんねん。マリー・スクウォドフスカ・キュリーの研究やで。マリー・キュリーとして知られてる彼女は放射能の研究で有名やけど、ほとんどの人はこの画期的な研究が彼女の博士論文の一部やったことを知らへんのやで。キュリーはポーランド生まれの科学者で、19世紀末にパリに移って勉強を続けたんや。
パリで物理学と数学の学位を取得して、夫のピエールに出会い、博士課程に進んだんやね。1903年にパリ大学に提出した論文で、キュリー自身が言うてるように、彼女の研究は「新しい放射性物質の抽出とその性質のさらなる研究」やったんや。論文のタイトルは「放射性物質の研究」やったんやで。
この研究は1800年代の最後の数年に行われて、1903年にキュリーの論文が発表された頃には、マリー、ピエール、そして同僚のアンリ・ベクレルが放射現象の研究でノーベル化学賞を受賞したんや。特に、キュリーの論文に詳しく書かれてる研究では、2つの新しい放射性物質、キュリーの母国ポーランドにちなんで名付けられたポロニウムと、ラジウムを発見したんやで。
この2つの元素は、数年前にベクレルが発見したウランよりもずっと放射能が強かったんや。元の論文自体が今でも放射性を持ってんねん。これらの新しい元素を発見するのは肉体的にしんどい作業やったし、当時はまだ知られてへんかった放射線病にマリーもピエールも苦しんでたから、もっと大変やったんやろうな。
ラジウムのサンプルを見つけるために、キュリー夫妻は大量の放射性鉱石ピッチブレンドを入手して、それを砕いて、溶かして、ろ過して、沈殿させて、集めて、再び溶かして、結晶化させて、再結晶化させて、ようやく塩化ラジウムのサンプルを分離したんやで。
マリー・スクウォドフスカ・キュリーは、フランスで物理学の博士号を取得した最初の女性やったけど、彼女にとってはそれが画期的な仕事の始まりに過ぎへんかったんや。2回目のノーベル賞(今度は化学賞)も受賞して、当時最先端の物理学の発見の最前線に立ち続けたんやで。
キャロル・グライダーが1985年に、後に2009年のノーベル生理学・医学賞受賞につながる発見をしたとき、彼女はまだ23歳で、カリフォルニア大学バークレー校の博士課程を修了してへんかったんや。でも、ちょっと話を戻そか。
1984年、グライダーは将来の共同受賞者の1人になるエリザベス・ブラックバーンの研究室にやってきたんや。ブラックバーンはテロメアの研究をしてたんやけど、テロメアっちゅうのは染色体を傷から守る繰り返しDNA領域のことやねん。テロメアが自然な老化の一部として短くなると、染色体が傷つきやすくなって、最終的には複製できんようになんねん。
ブラックバーンの研究室での大学院生としての研究の一環として、グライダーはテロメアの伸長の鍵を探してたんやけど、テロメア末端トランスフェラーゼっちゅう酵素の形で見つけたんや。同僚との飲み会で、この名前が最終的にもっとキャッチーなテロメラーゼに短縮されたんやて。この酵素は老化やがんの研究に大きな影響を与えることになんねん。
テロメラーゼの発見は1985年にCell誌で最初に発表されて、グライダーは1987年に「テロメア末端トランスフェラーゼの同定と特徴付け」っちゅうタイトルの博士論文を発表したんや。それから約20年後、グライダー、ブラックバーン、そして同僚のジャック・シュスタクがこのテーマの研究でノーベル賞を受賞したんやで。
ドナ・ストリックランドが物理学に興味を持ったとき、彼女は何かクールなものを研究したいって思ってて、そこで高出力レーザーを見つけたんや。ロチェスター大学の大学院生として、ストリックランドはジェラルド・ムルーの研究室で働いてたんやけど、ムルーはレーザーを破壊せずに高出力レーザーパルスを作ろうとしてたんや。
「それってすごくクールに聞こえたから、そこに行ってそれをやろうって思ったんです」ってストリックランドは言うてんねん。ストリックランドと自称レーザーマニアの仲間たちは、この野心を追求したんや。ムルーが最初に仮説を立てたように、ストリックランドはレーザーを引き伸ばしてピーク出力を下げ、増幅して、最終的に圧縮することで、レーザー自体を破壊せずにこれらの強力なレーザーパルスを作ることができたんやで。
ストリックランドは、このチャープパルス増幅って呼ばれるプロセスを1988年の博士論文「超高輝度レーザーの開発と多光子イオン化への応用」で説明したんや。このレーザー増幅法は、医療分野で大きな役割を果たしてんねん。例えば、眼科手術や医療画像診断に使われてるんやで。産業機械加工にも使われてんね。2018年には、ストリックランドとムルーがこの方法の開発でノーベル物理学賞を受賞したんや。
さて、多くの素晴らしい科学者たちが若いうちに自分の分野に大きな影響を与えてきたけど、これが普通ってわけやあらへんで。ほとんどの科学者はノーベル賞を受賞することはないし、学生の研究がノーベル賞を受賞するのはめっちゃ珍しいことやねん。
じゃあ、これらの大きな影響を与えた論文に共通点があるとしたら、何やろか?全部、正しいタイミングで正しいことに取り組んでたんやな。これらの例には全部タイミングの要素があんねん。大きな発見を最初にするには、他の誰もその同じブレークスルーを起こしてへん十分早い時期に問題に取り組む必要があるけど、同時にその発見をするための技術が存在する十分遅い時期でもなあかんのは明らかやろ。
既に蓄積された知識の上に立って、完璧なタイミングでやってこなあかんのや。ポール・ディラックは優秀で素晴らしい物理学者やったけど、ハイゼンベルグとシュレーディンガーが量子力学で世界を変えてからたった1年後に、まったく新しいトピックについて論文を書くっちゅうタイミングにも恵まれてたんやね。
1926年には、ディラックが飛び込んで解決できる未解決の問題がたくさんあったんや。彼がおらんかったら、誰か他の人が同じことをしてたかもしれへんし、もしかしたら今の分野全体が違う風になってたかもしれへんな。
それに、これらの人たちは皆、ブレークスルーにつながらんかもしれへんアイデアにリスクを取ったっちゅう事実もあんねん。放射性物質を分離するために何年も難しい仕事をしたマリー・キュリーのような人がおる一方で、同じくらい才能があるのに探してるものが見つからへんかった人もおったはずやで。
特に実験的な仕事には、自分ではコントロールできへん部分が必ずあんねん。これらの例には生存者バイアスっちゅう要素もあんねん。頑張った仕事が大きな成果を上げた例を示してるけど、同じくらい頭が良くて同じくらい頑張ってるのに、同じ結果が出へん学生もたくさんおんねん。
ジョセリン・バーネルとセシリア・ペインの例は、考慮せなあかん人的要素も示してんねん。学生は、上級の科学者たちが簡単には認めてくれへんかもしれへん中で、自分の価値を証明するっちゅう追加の課題に直面せなあかんのやで。
だからこそ、正しい指導教官を選ぶことは、正しいトピックを選ぶことと同じくらい重要なんやね。でも、このリストが実際に誰を除外してるんかっちゅうことも考えなあかんな。博士号や修士号の論文は東ヨーロッパで形作られた伝統やから、今では世界中に広まってるけど、西洋世界で見えるほど他の地域では影響力がないかもしれへんのや。例えばインドを見てみよか。
1920年代には、博士号はまだほんの一握りの大学で導入され始めたばかりやったんや。それ以前は、教育は討論や口頭発表などの他の方法で評価されてたんやで。多くのインドの科学者たちは、正式な博士号を取得せずに科学に大きな貢献をしてきたし、ノーベル賞も受賞してんねん。
例えば、1930年に光散乱の研究でノーベル物理学賞を受賞したC・V・ラマンは博士号を持ってへんかったし、量子力学の研究をしたサティエンドラ・ナート・ボースも博士号を持ってへんかったんや。ボースの名前は、アインシュタイン=ボース凝縮として、彼の名前の一部と共に不滅のものになってんねん。
中国では博士号の導入はさらに遅かったから、中国の優秀な科学者たちもこのリストから除外されてしまうんやで。例えば屠呦呦(トゥ・ヨウヨウ)を見てみよか。北京医科大学の薬理学の学士号相当の学位しか持ってへんのに、1970年代にマラリアの新しい治療法を発見した研究で2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞したんや。
特筆すべきは、この治療法が過去にマラリアがどのように扱われてきたかを知るために、古代中国の医学文献を研究することで見つかったっちゅうことやね。
多くの古代医学文献を調べる中で、屠は紀元400年頃のテキストに、ヨモギが間欠熱(マラリアの主な症状)の治療に使われてたっちゅう記述を見つけたんや。屠はヨモギに含まれる化合物を分離して、それがマラリアに対する抗作用を説明できるように思えたんや。そして、まずマウスとサルで試験して、次に自分自身と研究グループの他のメンバーで試してから、マラリア患者に投与したんやけど、驚くべき回復率やったんやで。
この化合物の活性成分アルテミシニンの抽出が、マラリア治療法への貢献として屠にノーベル賞をもたらしたんや。この治療法は世界中で何百万人もの命を救ってきたんやで。
そういう意味では、このリストに挙げた論文の多くがノーベル賞を受賞してるけど、そんな賞を取ることは科学の影響力を測る1つの方法に過ぎへんのやな。他の方法で影響力を持つ論文もあるかもしれへん。例えば、政策に影響を与えたり、認識を高めたり、人々に刺激を与えたり、新しい研究分野を立ち上げたり、あるいは純粋数学のようにノーベル賞で認められへん分野やったりするかもしれへんのや。
結局のところ、研究者になるっちゅうんは、試行錯誤を重ねて、科学的プロセスを学んで、プロとして成長していくことやねん。科学は大変な仕事やけど、時々全ての条件が揃って、学生が歴史の流れを変えることもあんねん。
この動画を可能にしてくれたパトレオンのサポーターの皆さんに感謝します。そして今日のパトレオン・キャット・オブ・ザ・デイ、オニキスに特別な感謝を。
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