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せやけど、ほんまはそないに昔のことちゃうねん。1860年代の東京の写真5枚を並べて作ったパノラマ写真やで。その頃、ロンドンやパリ、ニューヨークなんかの街はこんな感じやったんや。工場、蒸気船、鉄道なんかがあってな。
西ヨーロッパと北アメリカで産業革命が真っ盛りの頃、日本はまだほぼ中世の社会やったんや。大名とか侍みたいな騎士団、それに封建制度があったりしてな。
せやのに、たった80年後には、日本には自動車、路面電車、列車、空母、貨物船、それに広大な植民地帝国があったんやで。1940年代には、平均的な日本人はイタリア人並みの豊かさになってたんや。日本は、当時の先進国に追いつくことに成功した最初の国で、他の国の手本になったんやな。
韓国や台湾、ギリシャなんかの国は、日本を見て自分たちもそうなれるって思ったんや。これは日本が100年以上続けてきた傾向やな。日本はよく他の国より先を行っとって、世界は日本を見て自分たちの問題をどう解決すべきか学んでるんや。だから、日本の歴史を学ぶのは、私たちの未来をもっとよく理解するために大切なんやで。
ほな、どないしてそないなったんや? この動画では、日本の興隆と衰退、そしてまた興隆について見ていくで。
徳川時代
日本が産業化する前の時代は徳川時代って呼ばれとるんや。この時期、日本は世界から孤立してたんやで。日本人は国外に出られへんかったし、ほとんどの外国人は入国禁止、外国との貿易も厳しく制限されとったんや。
でも、完全に閉ざされてたわけやあらへんかってん。ここ、日本の南の長崎では、オランダの船が日本と貿易するのを許可してたし、朝鮮との使節も置いとったんや。それに、日本はよく外国人から最新の発明に関する様々な文献を買うてたんやで。
例えば、これ見てみ。18世紀後半に日本で作られた時計の設計図やねん。時計仕掛けみたいな最新技術に関するオランダの文献を使って、自分たちで時計を作ってたんや。
1850年代には、日本は当時使われてた日本の暦に基づいた独自の時計を持っとったんやで。日本は孤立してたけど、外の世界のことはよく知っとったんや。例えば1852年、オランダが日本に、アメリカから軍艦が日本に向かってるって知らせたんや。
翌年、アメリカの艦隊が完全武装した蒸気船で到着したんや。特別な大砲を積んでて、爆発する砲弾を撃てるんやで。これ、木造の建物に火をつけるように特別に設計されてたんやけど…たまたま日本の首都はほとんど木造の家で建てられとったんやな。
アメリカの司令官は日本に要求のリストを渡して、外交的に1年後に戻ってくると伝えたんや。もし日本がアメリカの要求を受け入れへんかったら、首都に砲撃するって。
日本は、こういうことが起こらんようにずっと前から首都の防衛を固めとったんやけどな。でも、日本が産業化してへんかったから、日本の大砲は西洋の大砲より射程が短かったんや。
だから、外国の船は日本の攻撃範囲の外におって、安全に都市を砲撃できたんや。この現実に気づいて、島国の日本はめっちゃ怖くなってんな。
アメリカの船が去って1ヶ月後、今度はロシアが軍艦を持ってきて、似たような要求をしてきたんや。その後すぐ、イギリスの艦隊も来て「また来るで」って言うてきたんや。
でも、なんでこの1850年代に突然いろんな国が日本にやって来たんやろ? この地図を見てみ。19世紀のアメリカの貿易ルートを示してるんや。ヨーロッパとの工業製品の貿易、西アフリカとの奴隷貿易がたくさんあるんやけど…
東アジアに向かう貿易ルートを見たら、面白いことに気づくで。アフリカを回って行くルートが多いんや。太平洋を通らずにな。これは主に、太平洋があまりにも広くて、アメリカと中国の間にほとんど港がなかったからなんや。補給するのが難しかったんやで。風がなかったら、海の真ん中で立ち往生して助けもないんや。
でも、運よく蒸気船が発明されたんや。石炭を使って船を動かすことができるようになったんやけど、問題が一つあってん。船は2週間で石炭を使い切ってしまうんや。だから、太平洋を確実に横断しようと思ったら、1週間ごとくらいに補給できる港が航路沿いにいくつか必要やったんや。そして日本は、ちょうど中国の隣にあったんやな。
アメリカは、北アメリカから太平洋のアメリカの植民地を全部経由して、最終的に日本まで行けるようになれば、中国と貿易する貨物船を確実に送れるって考えたんや。そして中国は、アヘン戦争に負けて、外国人が巨大な中国市場と無制限に貿易することを許さざるを得なくなってたんやで。
だから中国は、世界貿易の次の大きな市場として見られとって、みんながそこに参入したがってたんや。でも貿易するには、みんな貿易船用の石炭が必要やったんや。そやから、みんな日本にこんな考えを持って来たんや:
もしこれらのヨーロッパと北アメリカの国々が日本に貿易船に石炭を売るよう強制できたら、中国の港に少し楽に行けるようになって、もっと儲かるんちゃうか、って。
日本はたまたまたくさんの石炭を持っとって、アメリカの中国向け貿易ルートとヨーロッパの北中国向け貿易ルートのちょうど隣にあったんや。つまり、1853年から54年にみんなが日本にやって来た理由は、中国との貿易をちょっと儲かるようにしたかっただけなんや。日本そのものには興味なくて、ただ石炭が欲しかっただけやってん。
ほな、日本の視点から見てみよか。この100年間、外国人は時々日本にやって来ては、日本が追い返してたんや。例えば1778年には、ロシアが通商条約を要求してきたけど、断られて帰されてん。1808年には、イギリス船がオランダ船を追っかけてきて日本の港に入ってきたけど、日本の軍艦に追い払われてん。
1837年には、アメリカが貿易を始めようとして、難破した日本の船乗りを送り返そうとしたけど、砲撃されて引き返さざるを得なかったんや。でも今や、これらの外国人は、日本の大砲が一発も当たらへんのに、街全体を火の海にできるほど強力な船を持っとるんや。これは日本政府にとって完全な大惨事やったんや。火をつけられるか、孤立状態を終わらせるかの二択やったんや。
そして日本は2番目を選んだんや。結局、日本は11の条約を様々なヨーロッパと北アメリカの国々と結ばされたんや。一般的に、これらの条約は外国勢力に日本に大使館を設置することを許可し、特定の港を貿易のために開放し、外国人が特定の日本の都市で制限なく住んで働くことを許可し、外国人は日本の法律に従う必要がなく、法律を破っても日本の裁判所ではなく自国の特別裁判所に送られ、日本は外国貿易に税金をかけることができなくなったんや。
ちょっと想像してみてや。もしあんたの国がこんな条約に署名せざるを得なくなったらどうや? 外国人が好き勝手に法律破っても、自分の国の政府が税金の政策を決められへんし、誰が国に入ってええかすら決められへんのやで。これらの条約は日本にとって完全な屈辱やったし、自分たちの政府が国を守るには無能すぎるってことを示してたんや。
15年間、この怒りは高まっていったんや。政府が一つまた一つと屈辱的な条約に署名させられていくにつれてな。そして1868年、政府は倒されたんや。古い指導者たちは国を裏切ったんや。新しい指導者たちは物事を正そうとしたんやで。
明治維新
この新しい政府では、明治天皇って呼ばれる天皇がより大きな力を持つことになったんや。この時代は彼にちなんで明治時代って呼ばれとるんやで。この新しい政府には、ほんまに一つの目標しかなかったんや:生き残ることや。
彼らは、アステカ人やインド人、オスマン帝国みたいに、打ち負かされて植民地化され、外国勢力に分割されたくなかったんや。日本は独立国家であり続けると決意したんや…でもどないして?
ほな、このタナカヒサシゲっていう日本人発明家が1853年に設計した蒸気機関を見てみよか。ロシアが日本に貿易協定を要求しに来た時、彼らは機関のデモンストレーションをしたんや。タナカさんは、オランダの参考書を何冊か使って、日本で初めての蒸気機関を作ることができたんやで。
後に彼は設計を改良して、日本初の国産機関車と蒸気船を作ったんや。彼の工房は技術会社になって、1939年に別の会社と合併して、みんなも聞いたことあるかもしれへん東芝になったんやで。
でも、なんでこの話が大事なんやろ? 日本の指導者たちによると、他の国々が日本の権利を踏みにじれたのは、技術的優位性があったからなんや。だから日本が独立を保ちたいなら、自分たちでその新しい技術を取り入れなあかんかったんや。
そこで日本は、西ヨーロッパと北アメリカの技術的に進んだ国々に追いつくっていう野心的な目標を立てたんや。そして、できるだけ多くの西洋の制度をコピーすることでそれを実現しようとしたんや:鎖国政策を捨てて、これからは外国人や外国の考えを歓迎するようになった。中央政府を作って、日本を再び偉大にするための経済開発計画を立てたんや。
今日では、発展途上国が豊かになるためのいろんな経済モデルがあるんや。中国から、ソ連、ギリシャまでな。でも日本は最初やったから、全部自分たちで考え出さなあかんかったんや。だから最初にしたんは、自分たちが持ってるものを見ることやったんや。そして日本に豊富にあったもの、それは起業家精神やったんや。
タナカヒサシゲみたいな人たち、日本に近代産業を作り出す知識と意欲を持った人たちやな。でもこういった専門家たちには、工場を建てるだけの金がなかったんや。産業化以前の社会やったから、機械を買うのはめっちゃ高かったんや。日本には機械と交換できるような価値のある工業製品がなかったからな。
そこで日本に残された選択肢は一つしかなかったんや:政府や。政府だけが産業化にお金を出す能力と意欲を持ってたんや。でも専門家たちにはお金がなくて、政府には知識がなかったんや。だから政府はいろんな工場に投資して、タナカみたいな人たちに運営させたんや。政府の財力と専門家のノウハウを組み合わせたんやな。
北海道
日本がどないして産業化を進めたかを説明するために、北海道の例を見てみよか。北海道は日本で2番目に大きな島で、ここにあるんや。政府は、ロシアがこの島を乗っ取って、日本の土地で最初のヨーロッパの植民地にしようとするんちゃうかって怖がってたんや。結局のところ、ロシアは今日のウラジオストクって呼ばれてる場所を1858年、つまりたった10年前に中国から征服してたからな。
そして日本はウラジオストクのすぐ隣にあったんや。今日の私たちも知ってるように、ロシアの侵略を恐れるのは十分理解できることやな。
そこで1869年に…ナイスやな…1869年に北海道開発委員会を設立したんや。その目的は、植民地化するには強すぎるくらいまで島を発展させることやった。この島には潜在的な農地がたくさんあったけど、近代的な農業がなかったんや。
そこで技術的な専門知識を求めてアメリカに目を向けて、元アメリカ農務長官を顧問として雇ったんや。大規模農業技術を導入し、日本の気候に適した様々な種子を西洋諸国から輸入し、より多くの生産物を生み出せる新しい家畜を導入したんや。
これらの進歩をサポートするために、新しい技術を日本人に教えるための農業大学を設立したんや。日本の科学者たちはここで新しい農業形態を実験して、他の国でうまくいったことをただコピーするんじゃなく、日本でより良い農業方法を見つけ出そうとしたんや。運河を掘り、風車を建て、道路を舗装したんや。
各土地がどれくらい肥沃か、どんな鉱物が採掘できるかを調査するチームを派遣したんや。西洋諸国から鉱山設備を買い、専門家を雇って独自の鉄道の作り方を教えてもらい、これらの商品を日本の他の地域や外国に輸出するための港を建設したんや。
そして食料や原材料の輸出が増えるにつれて、日本最初のビール醸造所の一つがここに作られたんや。余った小麦やライ麦を使ってビールを作ったんや。サッポロビールって言うて、今でも存在しとるんやで…
正直、オランダのビールと同じくらいうまいと思うわ。これも星1つやな…いや、別に税金控除のためにこれを言うてるわけやあらへんで。
日本は特定の会社や事業を選んで、政府の支援を与えて新しい事業の免許を与えたんや。目標は、同じ業界に複数の会社を作って、健全な競争をさせることやった。この競争は、これらの会社が常に最高の状態を目指さなあかんようにするって考えたんや:最高の製品を作り、最も効率的な工場を運営し、効果的なサプライチェーンを管理するようにな。
これは、健全な資本主義経済がどう管理されるべきかについての西洋の資本主義哲学に基づいてたんや。この産業化は、しばしば裕福な日本人や機関から借りたローンで賄われてたんや。これらの事業が利益を上げると、ローンは日本人に返済されたんや。これは、オスマン帝国のように、外国から借金をしてた多くの他の国々とは対照的やったんや。
オスマン帝国の場合、富の大部分が海外に流出してしまってたんや。でも日本では、日本の富は日本に留まり、日本に再投資されたんや。そうやってさらなる産業化を促進したんやな。
1881年までに、北海道開発委員会は健全な経済を作り出してたんや。全国から移民が住んで働きたがるような場所になって、産業化は政府が関与せんでも前に進むようになり、日本のための大きな食糧供給源が作られたんや。
北海道は日本の産業化のモデルとなり、これが全国で繰り返されたんや:まず政府が設備と外国の専門家にお金を払って、彼らから学べることは全て学ぶ。次に特定の企業を選んで初期の産業化をリードさせる。そして健全な経済が整ったら、政府は多くの事業を民間部門に引き渡す。もしそうなってへんかったらな。
例えば鉄道の場合、最初は外国人を雇って外国製の列車を買ってたんや。次に政府が会社を設立して新しい鉄道の建設を管理し、最終的には日本人が自分たちで列車や線路を作れるようになったんや。この過程は、鉄鋼生産から造船、繊維産業まで、あらゆる分野で見られたんや。
例えば1880年には、綿紡績の会議を開いて、最新の綿技術を紹介したんや。事業主たちはすぐにそれに飛びついて、その後、繊維工場の数が自然に増えていったんや。
でも、ここで重要なのは、政府の支援がなくても近代化は起こってたやろうってことや。日本には多くの産業があって、比較的教育レベルの高い人口があって、オランダとの貿易のおかげで最新技術にアクセスできてたんやからな。
ただ、政府の支援がなかったら、そないに早くは起こらんかったやろうな。そしてこの時期、政府の支援を受けた日本企業はめっちゃたくさんあったんや。例えば1876年に設立された三井グループとか。東芝や日本製鋼所、さっき言うたサッポロビールなんかの重要な会社を所有しとるんや。
あるいは、もしかしたら聞いたことあるかもしれへん三菱。これは明治維新が始まってたった2年後の1870年に設立されてんな。そして今でも存在する、この制度の下で設立された何十もの小さな会社がある。東京証券取引所とか、世界最古の化粧品会社の一つ、資生堂とか、1873年に設立された大成建設なんかやな。これは従業員が所有する会社で、イスタンブールの二つの部分をつなぐ地下鉄トンネルを建設し、現在の日本の皇居を建てて、ドバイの人工島の建設を手伝ったりしてんねん。
国際外交
でも日本が産業化したにもかかわらず、多くの西洋諸国からは依然として「半野蛮人」と見なされとったんや。日本は世界から大国として扱われたかったんや。そして、強制的に結ばされた条約を再交渉することで、その目標を達成しようとしたんや。そして1894年に、そのチャンスが訪れたんや。
当時、イギリスとロシアはライバル関係にあったんや。イギリスは日本を、ロシアに西のイギリスと東の日本の間で努力を分散させる同盟国と見なしたんや。日本はその同意をする気があった…でも、脅迫の下で署名させられた古い条約を変更するって条件付きでな。
この時点で、イギリスは日本を石炭補給港としてよりも同盟国として必要としてたんや。だから対等な立場で新しい条約を結ぶことに同意したんや。19世紀後半の世界の超大国、イギリスが日本を対等に扱ったんや。これは外交的に大きな勝利やったんや。そして数年のうちに、かつて強制的に署名させられた全ての条約を再交渉したんや。
帝国
日本が公式に世界の舞台で対等な国として認められると、当時の全ての大国がしてたことをしたんや:植民地化やな。そして幸運なことに日本にとっては、はるかに貧しくて弱い国々が隣にあったんや:1874年に琉球王国を乗っ取り、近くの様々な島々を占領した。でも最初の大きな植民地は台湾やった。1895年に中国から奪ったんや。そして1905年にロシアと戦争して南サハリンを征服し、1910年に朝鮮を、第一次世界大戦中にはドイツの様々な植民地を、1931年に満州を、そして東アジアと太平洋の様々な小さな植民地を征服していったんや。
日本はこれらの植民地を、他の帝国が日本を征服するのを難しくするための盾として、そして重要な資源の供給源として使ったんや。日本が産業化するにつれて、近代経済を動かすためにあらゆるものがもっと必要になってきたからな。そして他の帝国と同じように、日本は自分たちの欲しいものを手に入れるために植民地の人々を虐待したんや:虐殺…奴隷労働…慰安婦…これらの人道に対する罪は非常に深刻で、今日でも元植民地の人々は元支配者の日本に対して恨みを持ち続けとるんや。
でも日本人にとっては、生活はどんどん良くなっていって、当時の世界で最も豊かな国の一つになったんや。日本は市民が投票できる議会を作り、独立した裁判所を設け、憲法を採用したんや。経済を成長させる会社を慎重に選び、政府が投資し、植民地を拡大するという戦略で、日本は第二次世界大戦前に大国の一つになったんや。
でも拡大するにつれて、他のより強力な国々と衝突するようになったんや。1930年代と40年代に、日本は中国、アメリカ、そして様々なヨーロッパの帝国と第二次世界大戦で戦争することになったんや。そして私たちが知ってるように、日本はその戦争に負けたんや。天皇は「戦局は必ずしも好転せず」と宣言したんや。
そして日本は植民地のほとんどを手放さざるを得なくなり、多くの指導者たちは東京裁判で戦争犯罪の裁判にかけられることになり、アメリカが日本本土を占領することになったんや。
再建
第二次世界大戦が日本に与えた影響を見るために、これらの写真を見てみよか。街全体が破壊され、東京では一晩で約10万人が火に包まれ、戦後は何百万人もの人が家を失ったんや。第二次世界大戦後の日本は壊れた国やった。どないかして再建する方法を見つけなあかんかったんや。そして再建の時代が始まるんや。
何百万人もの日本人が帰国してきた。兵士、行政官、民間人、みんな帰ってきたんや。仕事を探し、家を探し、食べ物を探したんや。
でも、アメリカにとって再建は重要やなかったんや。彼らの日本に対する目標は、二度とアメリカを脅かさんようにすることやったんや。そして彼らは、日本がアジアでもっと大きな戦争を始めるのを防ぐ最良の方法は、日本の政府をアメリカの政府みたいにすることやと考えたんや…結局のところ、アメリカは大きな戦争を始めたことはないし、他の民族を植民地化したり、人道に対する罪を犯したりしたことはないからな。
そこで彼らは日本に、1920年代のように再び民主主義になるよう強制し、20万人を反民主主義的と見なして政府から追放し、地方政府により多くの権限を与えたんや。アメリカは日本や日本人、日本語をよく理解してへんかったから、自分たちの法律を施行するのに十分な力がなくて、残された日本政府に頼らざるを得なかったんや。
その結果、政府の運営方法にはあまり変更が加えられへんかって、代わりに急進的、マルクス主義的、超国家主義的な勢力を権力から排除し、教科書を民主主義を支持する教材に置き換えることに焦点を当てたんや。これによって民主主義の支持者たちが権力を握り、アメリカの改革にほとんど反対せんかったんや。
そして占領の最初の5年間は、日本をより自由な民主主義にすることに重点が置かれたんや。でも冷戦が東アジアで重要な問題になってきたんや:北朝鮮がソ連の傀儡国家になり、中国が共産主義者に支配され、ベトナムが社会主義革命を起こしとってん。これらは全て日本の近くにあったんや。
そして日本はアメリカに軍事装備を売る気はあったけど、自分たちで何かするには弱すぎたんや。そこでアメリカは戦略を変えたんや。日本が再び強力な経済を持つようになれば、その経済力を使って共産主義と戦えるって主張したんや。そして新しい戦略はこうなったんや:日本がアメリカの同盟国であり続けることを確実にするために、日本は自衛のための小さな軍隊しか持つことを許されへんかったんや。
アメリカは自国の軍隊を日本に駐留させ、その費用の75%を日本に払わせることにしたんや。これはアメリカにとっては良い取引やった。日本に安い軍隊を置けて、日本をアメリカの保護に依存させ、日本が新しい帝国を作れんようにしたんやからな。その代わりに日本は経済発展に集中し、その富を使って東アジアの共産主義に対抗することになったんや。
もう植民地から資源を得られへんから、代わりにアメリカとその同盟国、つまり冷戦でアメリカと同盟を組んだ元日本植民地の国々からも資源を買わなあかんようになったんや。その結果、日本はよりアメリカ式の資本主義を採用することになったんや:他の国から資源を買い、国内でそれを製造品に変え、世界中の資本主義国に売るっていうやり方やな。
これは日本にとっては素晴らしい取引やったんや:経済を発展させ、世界中の資源にアクセスでき、世界の大きな経済国のほとんどに売ることができるようになったんや。そして自由貿易や民主主義、人権がいかに素晴らしいかについて少し語るだけでよかったんや。1952年、アメリカは占領を終了し、日本は再び自分たちの未来を決められるようになったんや。
日本が経済的に発展するためには、経済のすべての部門を発展させることはできへんかったから、日本が得意な産業に集中することにしたんや。この政策を「優先生産」って呼んだんやけど、今日では違う名前で知られとるな。「比較優位」っちゅうやつや。簡単に言うと、自分が得意なことに集中して、その製品を他の国に売り、その利益を使って自分で生産してへんものすべてを買うっていう考え方や。
でも日本の経済は何に集中すべきやったんやろ? そのためには、地理を見てみよか。日本を見ると、長い細い島々の連なりやってことがわかるやろ。つまり、日本のどこにおっても常に海に近いんや。でも山が多いから、人々は都市を建設しやすい少ない場所に住まざるを得へんのや。
そこで日本はこれを利用したんや:機械みたいな重いものをたくさん生産して、最寄りの港に送り、そこから世界中に輸送するっていうやり方やな。日本は世界で最も工業化が進んだ土地の一部を作り出したんや。そしてこれを全部セットアップするために、日本はまず重要な産業に焦点を当てたんや:石炭、肥料、電気やな。
十分な燃料と食料、電力が確保できたら、建設業や鉄鋼生産、重工業みたいな他の産業に焦点を移していったんや。これらは重くて輸送が難しいものやけど、日本は周りの海や海洋のおかげで簡単に安く輸送できたんや。そしてこの戦略は成功したんや:1955年までに日本の経済は戦前より大きくなったんや。
でも、ハイテク経済を持つには、高度なスキルを持った労働力が必要やねん。戦前は、大学生はほとんど上流階級出身で、金持ちの特権やったんや。でも近代経済にはもっとたくさんの教育を受けた人が必要やったから、多くの若者が大学に応募し始めたんや…でもそんなにたくさんの人のために設計されてへん学校やったんや。
単純に、教室も教師も大学も足りへんかったんや。なんでこれが問題なのか説明するために、現代のインドを見てみよか。彼らは似たような問題に直面してるんや:人口増加が激しくて、今では2億6000万人の子どもが学校に通ってる。これは他のどの国よりも多いんや。でも学校がついていけへんのや。
子どもの70%しか中等教育を受けられへんし、10歳の生徒の半分は6歳向けに作られた物語を読めへんし、4分の1しか簡単な割り算ができへんのや。そして数学がうまくできへん人は、工学や計量経済学の学位を取ることは絶対にできへんやろ。この2つは工業プロセスをスムーズに動かすのに重要な分野なんやで。
その結果、これらの学生は高給の仕事を見つけたり、成功するビジネスを作ったり、次世代のために国を発展させるのを助けたりする可能性がずっと低くなるんや。もしあんたが、インドがなんで大きな人口があるのに超大国になれるかどうか疑問に思う人が多いのか不思議に思ったことがあるなら、小学校で習うはずの基本的なスキルが欠けてることがその理由の一つなんや。
つまり:インドみたいになりたくないんや。じゃあ、日本はどないしてこれを避けたんやろ? 彼らはこの問題にかなり早く気づいて、学校に行きたい人みんなが行けるようにするためにめっちゃたくさんのお金を使ったんや。日本は教育システムを簡素化したんや:生徒は小学校で6年、中学校で3年、高校で3年過ごすことになったんや。
多くの西洋諸国と似てるな。高校生は大学に行って高度な訓練を受けた専門家になり、高給の仕事に就くことを奨励されたんや。そしてそれは成功したんや:1950年代には、中学校以上の正規教育を受ける学生は50%未満やったけど、1975年には90%以上になったんや。他の先進国と同じレベルになったんやな。
でも人々が受ける教育は、しばしば性別で分けられとったんや。男女ともより良い教育を受けたけど、ほとんどの男性は4年制の大学を卒業したのに対して、女性はしばしば2年制の短大しか行かへんかったんや。でも彼らの教育は大学を出てからも終わらへんかったんや:最新の進歩を学ぶために海外に送られ、そのノウハウを持ち帰ったんや。
そして日本は様々な製品に輸入制限をかけて、外国製品を買うのをより高くしたんや。その結果、高度なスキルを持った人々が帰国したとき、彼らを雇って日本人自身にその製品を売る準備ができてる会社がたくさんあったんや。最終的に彼らは非常に上手になって、日本製品がしばしば外国製品より安くなり、日本は輸出経済になって、テレビやVCR、車なんかのハイテク製品をあらゆる種類売るようになったんや。
でも70年代までに、他の国々はすぐに日本がやってることに気づいて、西洋諸国の会社に市場を開放するよう日本に強制したんや。ヨーロッパと北アメリカの会社が、どんどん豊かになる日本の消費者からたくさん金を稼げることを期待してな。でもここで面白いことが起こったんや:西ヨーロッパと北アメリカは長い間、地球上で唯一の豊かな場所やったけど、同時に似たような文化も持ってるんや。
だからフランスの会社がカナダでワインを売りたいなら、似たような文化のおかげで製品やマーケティングをあんまり変える必要がなかったんや…でも日本は初めての本当の例外やったんや。だから西洋の会社が西洋のマーケティングを日本の文化でやってみても、日本人は興味を示さず、代わりに日本の会社の製品を選んだんや。
その結果、日本の企業はほとんど外国の競合他社を心配する必要がなくて、国内での利益を確実に使って海外にもっと輸出できたんや。これによって日本の企業は他国への販売に集中し、生産ラインをますます効率的にすることができたんや。実際、20世紀後半までに日本は世界で最も効率的な経済の一つを持つようになったんや。
まず、地形のせいで人々は国の小さな地域に住まざるを得んかったから、公共サービスを提供するのが安くなったんや:路面電車や下水道、消防車なんかが遠くまで行く必要がなかったんやな。特に東京エリアはめっちゃ効率的や:東京湾の周りにほぼ途切れることのない工業地帯があって、3つの製鉄所、13の石油精製所、6つの石油化学プラント、12の他の化学プラント、10の造船所、2つの自動車工場、14の発電所があるんや。
そして何千もの小さな工業施設がある。これらの施設は20世紀後半までに世界で最も効率的な経済の一つに変わったんや。分かるやろ、日本では全てが近くにあるから、工業プロセスがもっと専門化できたんや。だから1つの工場が自分で部品を作って、その部品を製品にするんじゃなくて、日本は多くの工場がそれぞれ少量の部品を生産するシステムを作ったんや。
他の工場がこれらの部品を全部買って、製品に組み立てるんや。そしてこのシステムはずっと効率的なんや。なぜなら、もしあんたの工業プロセス全体がねじみたいな一種類の製品を作ることに向けられてたら、何百もの工場がそれぞれ自分のねじを作るよりも、もっと効率的なシステムを作れるからや。
その結果、安くなるから、最終的にはほとんどの他の工場があんたから買うことを選ぶようになるんや。日本は基本的に20世紀後半にこのプロセスを完成させたんや。その結果、日本経済は世界で最も効率的なものの一つになって、他の多くの国々が日本の例に倣ったんや。
今日、私たちの国で同じシステムを持ってる理由は、日本でどれだけ効果的やったかを見て、自分たちも同じものが欲しくなったからなんや。日本経済への最初の本当の脅威は1980年代に来たんや。中国が世界に市場を開放した時やな。突然、繊維産業みたいな低コストの製造業が日本から離れて中国に移っていったんや。
より大きな労働力とより低い給料を持つ国にな。日本のこれらの産業での利益は急落した…でも政府には計画があったんや:日本はグローバルな資本主義システムでの衣服の作り方と売り方についてよく知ってたけど、中国は知らへんかったんや…だから中国の企業に日本のノウハウを提供したらどうやろ? そしてわずか数年で、日本は中国の最大の貿易相手になり、日本は新しい市場に集中できるようになったんや。60年代から90年代、そして、時間とともに日本の生活は大幅に改善されていったんや。家は大きくなり、様々な食べ物にアクセスできるようになって健康になり、平均寿命も1935年の約47歳から、1960年には68歳、1990年には78歳、2019年には84歳まで伸びたんや。まあ、いつもながら女性の方が男性より長生きやけどな。そして人々が長生きするにつれて、人口も増えていったんや。1853年の3200万人から、1935年頃には7000万人、1968年には1億人、1990年には1億2300万人になり、2010年にはピークの1億2810万人に達したんや。
最終的に、低出生率と高齢化のために人口が減少する最初の工業国になったんや。でも、ほとんどの他の国が年金受給者の仕事を引き継ぐために外国人を雇ってるのに対して、日本社会はかなり外国人嫌いで、外国人がほとんど来て働くことを許さへんのや。
その結果、日本人が週60時間以上働くのは珍しくないんや。もしあんた、西洋の最も外国人嫌いな政党でさえ、いくら移民を嫌ってても、国境を閉鎖するために本当に努力してるように見えへんのはなんでやろって不思議に思ったことがあるなら:それは彼らが日本を見て、外国人に仕事を与えるよりも人々がもっと長く働かなあかんようになる方が、より多くの票を失うって気づいてるからなんや。
これも、他の国々が日本を見て、自分たちがどうすべきか学んでる例の一つやな。そして日本には十分な労働者がいなかったから、より多くの女性が仕事に就くようになったんや。第二次世界大戦後は、主に男性が働いて女性は家にいたんや。彼女たちは家庭の世話をする人として見られてて、予算や子どもの教育、近所での家族の地位を維持することをほぼ完全にコントロールしてたんや。
子どもたちが家を出ると、これらの女性たちは自由な時間がたくさんできて、多くの人がその時間を社会問題のために戦うのに使ったんや:公共の安全、環境保護、女性の問題なんかやな。例えば、政府が中絶に制限をかけようとした時、主にこれらの女性活動家たちが運動を起こし、抗議し、そういった政策に対して強い抵抗を作り出したんや。
これについては、次に予定してる中絶に関する動画でもっと詳しく話すかもしれへんな。20世紀後半から21世紀初頭にかけて、これらの女性たちは workforce に戻ってきて、若い世代の女性たちは子どもを産んでも仕事を辞めることが少なくなってきたんや。
彼女たちはすぐに、女性が働いてこなかったせいで、ほとんどすべての地位が男性によって占められてることに気づいたんや。そして男性が支配する職場は、女性が参入してくるのを歓迎せん競争相手として認識して、女性たちはしばしばあまり名誉ある仕事とは見なされへん仕事に就かされたんや。
性別に基づく採用、給与、昇進が一般的になったんや。日本企業全体で、女性が男性と同じレベルに達するのを防ぐための様々な政策が実施されたんや。これはよく「ガラスの天井」って呼ばれとるな。1990年代までに、日本の管理職のわずか10%しか女性が占めてへんかったんや。
その結果、この性差別のせいで、日本経済は高度なスキルを要する高レベルの仕事で働く多くの有能な人材を失うことになったんや。これらの男性たちは、そして今でもよく、女性たちがより高い給料とより大きな権限を持つ地位に就くのを妨げとるんや。これは今日に至るまで日本が直面してる問題なんや。
結び
そして1990年代に、日本は急速な経済成長の終わりに達したんや。他の先進国に追いついてしまったんや。もし成長を続けたいなら、もう単に他の国をコピーするだけではあかんくなった。新しい技術やシステム、物事のやり方で、どう経済を成長させ続けるかを自分たちで考え出さなあかんようになったんや。
その結果、日本の経済はこの30年間ほとんど成長してへんのや。でも、なんで日本の経済がこの30年間ほとんど成長してへんのか、誰も明確に理解できてへんのや。いくつかの理論はあるんやけど、経済学の分野は、なんで日本が停滞してるのに他の先進国は成長し続けてるのかを理解するほどには進歩してへんのや。
そして、今日はここで終わりにしようと思うわ。日本は過去160年間で長い道のりを歩んできたんや。貧しい国から強大な帝国へ、そして今日の世界第3位の経済大国へとな。
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