大恐慌と今日の恐ろしい類似点 | 世界が崩壊するとき | 実際の歴史

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父はよく車で連れ出してくれたんや。父はおったりおらんかったりで、4歳くらいからほとんどおらんかったんやけど、時々現れては車に乗せてくれたな。後部座席のある車やった。ニューアーク空港の方に向かって走っていくんやけど、そこに「シャンティータウン」いうのがあってな。何エーカーもテントが張られてて、小さな焚き火が見えたんや。
家族を養えへんようになって家を出た男たちがおったんやけど、浮浪者とは違うんや。そこに住んでたからな。お金がなくて、恥ずかしい思いをしてる人たちやった。恥というのが大恐慌を表す言葉やったな。もし他の言葉で表すとしたら、恥に満ちてたということやな。
みんなにとってすごく厳しい時代やった。うちも例外やなかったわ。母が父に言うたんを覚えてるわ。父はタクシー運転手やったんやけど、母が「テーブルにミルクがないわ。タクシー乗せて金稼いできてよ」言うたんや。父は「誰もタクシーに乗らへんのや。金がないからな」言うて。母は「出て行って銀行強盗でもしてきなさいよ」言うたんや。
父は1時間半後に戻ってきて、25セント硬貨をテーブルに投げ出して「はい、ミルク買うてこい」言うて。そして泣き出したんや。母は座ってじっと父を見とったな。葉巻吸ってる父を見て「葉巻吸って、自分をロックフェラーだと思ってるの?」言うて。そして葉巻を折ったんや。それからは父はパイプタバコを吸うようになったな。
全てのコメディは悲劇から生まれるんや。それはショックやな。社会的なショックで、人々にとってはひどいことやけど、人間の創造性が芽生えるのはそういう時なんや。何かせなアカンって思うからな。食べていかなアカンからな。そこからスタートするんや。
よく言われてたのは、「父は仕事ができへんかった」いうことや。みんな同じ言葉を使ってたな。「仕事がなくて、家に食べ物がなくて、家賃も払えへんかった。大家に追い出されそうやった。そして大恐慌がきた」言うて。そこで人々は笑うんや。
ニューヨーク、1929年10月。この大都市は穏やかで平和やった。そして突然、ウォール街が崩壊したんや。でもブローカーたちは落胆せえへんかった。繁栄は目の前にあると知ってたからな。
ある人は白パン、ある人は全粒粉パン、またある人はライ麦パンを好んだ。鳥たちには選択肢がなかったけどな。
わしは孤児として生まれたんや。家もなかった。だから絶対的な貧困から這い上がってきた子供の一人やったな。将来どうなるか分からへんかった。何になりたいか分からへんかったから、ヒッチハイクで国中を旅することにしたんや。何か起こるかもしれへんと思ってな。
これは1929年6月やった。西海岸をヒッチハイクしてワラワラ・ワシントンまで行ったんや。それからロッキー山脈を越えようと思ったんやけど、ヒッチハイクじゃ難しかったな。そこで貨物列車に乗る浮浪者になり始めたんや。国中を貨物列車で旅したな。全然お金を持ってへんかった。たぶん5ドルくらいやったと思う。
仕事があれば何でも引き受けたんや。どんな仕事かも分からんかったけどな。「1日2ドルで、上がったり下がったりして電気をつけたり消したりするだけや」って言われたら、「これがあんたの定職か?」って聞いたんや。「いや、定職やないよ。友達の代わりに休みの日に代わりにやってるだけや」って。「上がったり下がったりするだけでええんか?」「そうや、自由の国やからな」って。
ニューヨークに着いたら、ブルックリンのYMCAの体育館で寝てたんや。タイピストの仕事があってな、ウォール街で働き始めたんや。8月と7月はずっと働いてた。そして10月がきた。これが人生の大きな転機やったな。
1929年10月29日、大恐慌が始まったんや。市場の下落と価格の変動についていけへんかった。株を売りたくても売れへんかった。下がっていくのは分かってても、連絡が取れへんかったからな。全てが混乱してた。
ニューヨークのナショナル・シティ・バンクで働いてた人たちはみんな泣いてた。全ての貯金をウォール街に投資してたからな。ウォール街のどこを見ても、男も女も、これからどうなるんやろうって不安そうやった。わしもちょっと不安やったけど、生まれた時からずっと不安やったから、他の人よりは有利やったな。
現代の経済的困難に立ち向かうには、幌馬車時代の男女が示したのと同じくらい高い勇気と進取の気性が必要やな。
わしはニューヨークのブルックリンで、下宿屋のテーブルの上で生まれたんや。父はスコットランドのグラスゴー出身で、第一次世界大戦に参加してた。それからコメディアンになったんや。当時はバーレスクの時代やった。人々は笑いたがってた。笑うことなんてなかったのに、みんな集まって「バーレスクショーをやろう」って言うてな。「それ何や?」って聞いたら、「ギャグやダンスグループやこれやあれや」って。
母はわしをカリフォルニアに連れてきたんや。ボロボロの車でな。母は「息子は何かになりたがってると感じるのよ」って言うてた。旅は楽やなかった。モーテルもなかったから、汚いマットレスで寝たもんや。道路も地図もなかったな。「カリフォルニアに向かってるんか?」「たぶんあっちやと思う」みたいな感じやった。母にとってはきつかったと思う。
わしは生まれた時のことを覚えてるんや。だから人生の全てを完全に思い出せるんや。19歳の時、グレイハウンドのバスに乗ろうとしてな。ユナイテッド・シガー・ストアの窓を覗いたら、ジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」があったんや。「怒りの葡萄」を買って、バスに乗って、ダストボウルを66号線で通過しながら本を読んだんや。
その本はすごかった。スタインベックがわしに語りかけてくるようやった。だから「火星年代記」を書いた時、「怒りの葡萄」のアイデアを借りたんや。
自転車に翼をつけて、ペダルをこぐと少し浮き上がるようにできないかって考えたのを覚えてるわ。オレンジ箱や缶で操縦席を作ったりしてな。スロットルみたいなもんを作ったんや。飛行機に乗ったこともなかったのに。
あの頃は「シャドウ」とか「軋むドア」なんかのラジオドラマを聴いてたんや。テレビの映像で想像力を奪われることもなかった。全部想像せなアカンかったんや。
あの時代のすごいところは、二度と見られへんと思うけど、人々が驚くほど受け身やったことやな。人生が与えるものを甘んじて受け入れてた。法律はできる限り守ってた。家族を養うためなら別やけどな。そうなったら盗みもするし、生き延びるためなら何でもしたんや。
食べ物を盗んで家に持って帰ったのを覚えてるわ。市場の後ろのゴミ箱を漁って、まだ食べられそうなレタスの葉を探したりしてな。生きるためにそういうことをしたんや。
父は出て行ってしもうて、母は再婚したんや。継父は「男は働く、女は料理する」みたいな考え方の人やった。でも仕事がなかったんや。仕事がないことが継父に影響して、すごく意地悪になってしもうた。だから家族全員が色んな面で苦しんだんや。
1930年代の大恐慌は、ただの商品バブルや価格バブルやなかったんや。あれが深刻で長引いた理由は、たくさんのことが同時に起こったからや。1920年代の株価バブルがあって、それが株式市場の暴落を引き起こしたんやけど、同じくらいの規模の株式市場の暴落を見たことはあるけど、あんな大規模な経済混乱にはならへんかったからな。
1930年代にはもっと深刻で根本的な問題があったんや。正直言うて、経済史家たちは今でも何が起こったのか意見が一致してへんのや。
1932年に銀行が閉鎖された時のことを覚えてるわ。母が兄弟と私を呼んだんや。みんな庭で遊んでたんやけど、母が「悪いニュースがあるの」って。大切な親戚が亡くなったんかと思ったんやけど、母は「銀行が閉鎖したの。あなたたちの銀行にあるお金はもう見られないわ。たぶん二度と取り戻せないでしょう」って言うたんや。
社会保障もなかったし、今の人たちが持ってる困難を乗り越えるための手段もなかったんや。完全に自力でやらなアカンかったんや。
わしが11歳くらいの時、1936年やったと思うけど、オクラホマからカリフォルニアに大勢の人が来たんや。ダストボウルからやな。でもこの地域で育った私たちは、友達と「貧乏やけど、気づかへんかった」って言うてた。みんな貧乏やったからな。
オーキーたちは純粋な決意で乗り越えたんやと思う。でもお金もなければ車もない。どうやって移動するんや? 厳しすぎたんや。でも知ってる家族で、カナダで大成功した人たちがおるんや。
5、6人の子供と母親、父親が車に乗って、全財産を積んで、フライパンなんかを車の横にぶら下げて、オーキーたちみたいにしてたって聞いたな。小さな町に立ち寄りながら進んでいって、最終的に一人の息子はレジャイナに、もう一人はサスカトゥーン、もう一人はカルガリーに降ろされて、カナダの各地で自分の道を切り開いていったんや。
チャールズ・ディケンズが「最良の時代であり、最悪の時代でもあった」って書いたけど、信じてくれ、最悪の時代やったんや。人々は食べ物もなく歩き回ってた。有名な金持ちたちに何が起こったかなんて話す必要もないやろ。本当に国が沈没していくような感じやったな。
1933年に家を失って、通りに放り出されたんや。人生で最も恐ろしい瞬間の一つやった。父は世間知らずな人やったな。みんなが株で金儲けしてた時、「ジョー、お前の金はどうしてるんや?」って聞かれても、家に隠してたんや。「家が燃えたらどうするんや、投資せえ」って言われたけど、父には分からへんかった。
だから1928年くらいに投資し始めたんや。エレクトリック・ボンド・アンド・シェアとアナコンダ・カッパーに投資したんやけど、もちろん証拠金取引やった。みんなそうしてたからな。ブローカーたちもそうするように勧めてた。全てが崩壊した時、うちは全てを失ったんや。父は二度と元の人には戻れへんかった。
昼飯を食べてる時に、銀行で住宅ローンを扱ってる男が入ってきてな。「お前ら、ここで何してるんや?」って言うんや。母は「Xさん」って言うたんやけど、名前は言わへんわ。今でも家族がおるからな。母は「昼食を食べてるところよ。一緒にどうですか?」って言うたんや。
そしたらそいつが「ここで食事なんかできへん。ここはもうお前らの家やない。俺の家や」って言うんや。父はもうこの時点でダメになってた。母はすごく強い人で勇敢やったんやけど、「Xさん、ここは私たちの家よ。ここに住んでるんだから」って言うたんや。
そしたらそいつ、「お前らの家やないって言うてるやろ」って言うて、絨毯に唾を吐いたんや。そしたらもう家族みんながへなへなになってしもうて。家から追い出されて、家具も全部外に出されてしもうた。ほとんどすぐに消えてしもうたわ。
母に姉がおって、その夫はまともな人やった。古い社会主義者で、株式市場や他人の労働で儲けることを信じてへんかったんや。小さな家具店を持ってて、ウェストピッツトン・ペンシルベニアにあったんやけど、そこに住むことになったんや。
わしは大恐慌の時代に育ったんやけど、比べるものがなくて、近所の人みんなが同じように暮らしてたから、大恐慌や不況なんて分からへんかったんや。でも救いになったのは、多くの人がそうやったと思うんやけど、田舎や半田舎の地域では、家の2倍くらいの大きな菜園があったことやな。
たくさんの野菜を育てて、夏中はその菜園から食べてた。ある意味、食べ物はタダやったんや。鶏も25羽飼ってたんやけど、あんまり殺さへんかった。卵が減るからな。わしの仕事の一つは毎日卵を集めることやった。
家族は1日に6個か8個か10個くらいしか食べへんから、近所にあげてたんや。「これをあげるからそれをちょうだい」みたいなもんやなくて、ただ「卵をどうぞ」って感じやった。他の時は、牛を飼ってる人がミルクを持ってきてくれたりしてな。
これは発展途上国でやってるプログラムみたいなもんや。家族にヤギを与えるんや。ミルクが得られるだけやなく、近所の人にも分けられるくらいミルクが出るんや。そうやってバーター取引ができるし、時には小さな乳製品ビジネスを始めたりもできるんや。
好奇心と挑戦が、この勤労倫理を生み出したんやと思う。前に進まなアカンかったし、創造的にならなアカンかった。創造的な心を持たなアカンかったんや。
「状況は厳しそうやけど、ずっとこんなことが続くわけやない」
大恐慌は物理的・経済的な意味では落ち込みやったけど、社会的・文化的・精神的な意味では刺激やったんや。苦闘や争い、トラウマや悲劇は、最大の強さの源になるんや。
現代の進化論的な考え方では、協力したり信頼したり、犠牲になったり与えたりする基本的な社会的傾向は、苦闘や脅威に対する集団的な社会性の産物やと考えられてるんや。だから資源が不足したり脅威がある歴史的な時期に入ると、それがオンになるんや。
大恐慌の時や戦時中、経済的な困難の時に、人々はすぐにこの結びつきの傾向を感じるんや。これが苦難の時代の素晴らしい産物なんや。今でも、私たちは分断されてるというより、つながりが切れてるんや。力はつながりから生まれるんや。プラグを差し込めば電力が得られる。だからわしはつながりを楽しんでるんや。
わしには106人の名付け子がおるんや。大統領もその一人やな。106人もおるんは、わしが聞いてあげるからや。一緒に祈って、話して、アドバイスするんや。親になり直さなアカンのや。わしの父さんや母さんだけがわしを育てたんやない。コミュニティ全体がわしを育ててくれたんや。
あの頃は人々が互いに助け合ってたのを覚えてるわ。誰かが持ってるものを自分が持ってなかったら、交換したり、ただでくれたりしてな。それが人々の最高の部分を引き出すんや。
わしは1936年にオークランドで最初の公式ジムをオープンしたんや。女性にウェイトトレーニングをさせた最初の人間やった。お年寄りにウェイトトレーニングをさせた最初の人間でもあるし、アスリートにウェイトトレーニングをさせた最初の人間でもあるんや。
「ジャックは頭がおかしい」「変人や」って噂が広まったんや。「女性にウェイトトレーニングをさせてる」「アスリートにウェイトトレーニングをさせてる」「アスリートは筋肉バカになる」「お年寄りは心臓発作を起こす」って。信じられへんくらい大変やったわ。
最初のジムをオープンしただけでなく、大恐慌を乗り越えなアカンかったからな。人々にはお金がなかった。でもそれがわしのスタートやったんや。大恐慌のことなんか考えてへんかった。人々を助けることを考えてたんや。
「上がって下がって、上がって下がって。これが商売や言うてるんか? 安く買って高く売る。安く買って高く売る」
わしは1929年に高校を卒業して、ソロモン・ブラザーズの使い走りとして仕事を得たんや。ウォール街から抜け出せた数少ない人間の一人やったな。9月1日に大学に行かなアカンかったから、ウォール街を出て、4年間離れてたんや。
父は保険ブローカーで代理店をやってて、従業員が数人の小さな会社やった。ある日、父が帰ってきて、夕食の時に「今日、誰かを解雇せなあかんかった。すごくショックやった」って言うて、涙を流し始めたんや。父が泣くのを見たのは初めてやった。
あの頃は、男は泣かへんもんやった。感情を表に出すもんやないって、そんなバカげたことが当たり前やったんや。でもそれを忘れたことはないな。父をすごく動揺させたんや。その男を解雇せなアカンかった。収入がなくて給料を払えへんかったからや。そうせんと、うちに食べ物を持って帰れへんかったんや。
1945年11月に戦争から帰ってきたんや。まだ空軍の制服を着てた。母と父に会いに帰って、車で走ってたら、突然銀行の隅にXさんを見つけたんや。「ちょっと止めてくれ」って言うて。23歳で体調最高やったんや。銀行に入って「Xさん、わしのこと覚えてますか?」って聞いたんや。
「いや、知らんな。何や?忙しいんや」って言うから、「こうや」って言うて唾を吐いて。立ち上がったところを殴ったんや。狂ったような瞬間やった。周りを見たら笑ってて、みんな固まってた。誰も動かへんかった。誰も止めへんかった。
Xさんは床に倒れてた。「これがあんたが母さんと父さんにしたことや」って言うたんや。人生で最高に満足した日やった。今でもそう思うわ。
通りの下にキャンディーストアを持ってる男がおったんや。キャンディーストアはいつも生活の中心やった。ジョーいう名前で、すごくハンサムな男やった。いつも笑顔で、いい服を着てた。
ジョーのええところは、あの頃デイリー・ニュースが2セントで、日曜日は5セントくらいやったんやけど、土曜日にブルックリン版を取りに来ても、日曜日に残りの新聞を取りに来るまで払わんでええってことやった。
ジョーはいつもブルックリン版を先に渡してくれて、日曜日に残りの新聞を取りに来た時に残りのお金を払えばええってしてくれたんや。世界で一番優しい男やった。
ある日、起きたら店が閉まってた。「何があったんや?」って聞いたら、ジョーが首をつって死んでたんや。もう本当に…今でも思い出すわ。なんでやろ。家賃が払えへんかったんかもしれへん。何があったんかは分からへん。あの時代、多くの人にそういうことが起こってたんや。
アメリカが産業革命の時代に入った19世紀初頭から、ビジネスサイクルに周期的な大きな変動があって、一般に不況と呼ばれてたんや。1830年代、1850年代、1870年代、1890年代、1921年にはかなり鋭い不況があった。でも短期間で終わったんや。
だから1930年代の大恐慌は、全く見慣れないものってわけやないんや。ただ規模が大きくて、長く続いただけや。それ以降、あれに匹敵するようなものはないな。
本当にひどい出来事やった。基本的に10年間続いたんや。多くの労働者が、働き盛りの時期に10年、12年、15年もの就労歴を失ったんや。殺人ミステリーみたいなもんや。みんな好きな犯人がおるやろ。大恐慌も「誰が経済を殺したのか」っていう感じやな。
経済システムに何か大きな問題があったと気づいて、経済学の道に進んだ経済学者が一世代おるんや。何が間違ってたのかを理解して、さらにそれを修正して、二度とそんなことが起こらないようにする方法を見つけ出そうとしたんや。
大恐慧を防ぐ鍵は、金融機関を防火性のあるものにすることや。昔は街全体が木造建築で、みんなが密集して住んでた。17世紀末のロンドン大火のように、街の大部分が壊滅して、多くの人が財産を失い、命を落とすこともあったんや。
だから現代の都市みたいに、様々な構造物があって、防火帯が多く、消防署や消防車もたくさんあるようなものを作りたいんや。金融システムもそうせなアカンのや。
規制を自然に更新するプロセスはないんや。歴史的に見ると、何か大きな問題が起こって、規制が時代遅れになってることに気づくんや。こういう危機の時には、様々な側面について考えることが特に重要なんや。
経済政策の議論のほとんどは、金融市場の規制をどうするかに焦点を当てててな。それも大事やけど、それ以上のことを考えなアカンのや。危機が起こっても、人々の生活をより良く守れる、より強靭な社会をどう作るか。もっと良いセーフティネットをどう作るか。そういうことを考えなアカンのや。
機能するためには、いくつかのことを確信せなアカンのや。誰を信頼できるか、誰が自分を愛してくれるか、次の食事はどうするか、雨が降ったらどうするか。そういうことを把握しておかなアカン。そうせんと、リスクを取って成長したり、楽しいことをしたりできへんのや。
それが乱されると、肉体的にも精神的にもひどいことになるんや。
素晴らしい研究があってな。研究チームが国中を回って詳細なインタビューをしたんや。大恐慌が人々に心理的にどんな影響を与えたか、色んなことを発見しようとしてたんや。
一つ一貫した発見があったんや。ケースの後にケースを重ねて見つかったんやけど、失業した男性が個人的に罪悪感を感じて、恥ずかしがって、屈辱を感じて、恥じて、謙虚になってたんや。自分がこんな状況に置かれたことをな。
今から歴史的に振り返ると、「ちょっと待てよ、この失業した男は周りを見渡せば良かったんやないか。他にも1299万9999人の失業者がおったんやから、突然個人的に失敗したわけやないし、道徳心を失ったわけでもないのに」って思うかもしれへん。
でも、多くの失業者の反射的な反応は、自分の状況を自分のせいにすることやったんや。システムのせいにはせえへんかった。これが集団的な政治行動の妨げになったんや。
フランクリン・ルーズベルトは1932年の大統領選挙キャンペーン中、何度も側近にこう言うてたんや。「これは南北戦争以来、この国が直面した最悪の危機や。なのに、なんで人々は街頭に出てこないんや? なんでデモをしないんや? なんで政治的な対応を求めないんや?」って。
大恐慌が最悪の時期、アメリカの人口のほとんどが受け身やったっていう一般的な考えとは逆に、実際はそうやなかったんや。例えばシカゴでは、アフリカ系アメリカ人の間で、大恐慌の最初の年である1930年に、何百人もの黒人男性がワシントンパークの南側に集まって、自分たちの苦境について話し合うのはよくあることやったんや。
1931年8月には、1000人以上、もしかしたら5000人くらいの人が、警察と保安官代理によって立ち退かされそうになってた未亡人の家に向かってデモ行進をしたんや。何千人もの人々が、彼女の家具が通りに出されるのを防いだんや。
残念ながら小競り合いがあって、警察が武器を使って、デモ参加者3人を殺してしもうた。白人も黒人も一緒になって、3万人以上の人がサウスステート通りを大行進したんや。3人の遺体が安置されてる葬儀場の前を通ったんや。
これが1930年代半ばの労働組合の活動と結びついて、大量生産産業で組織化が進んだんや。そこで利害が一致して、少なくとも一時的には、過去の人種間の緊張が克服されたんや。
これが北部でキング牧師が成功できる土台になったんやな。30年代に、ある意味で並行した制度を作ったんや。並行した社会制度、政治制度、経済制度、文化制度をな。
これが若かった私たちに、楽しめるって感じを与えてくれたんや。将来のことを真剣に考えるなら学校に行くべきやって。貧乏やったけど、貧困には陥ってへんかったんや。そこには違いがあるんや。
一つは偶然そうなった状況で、もう一つは態度の問題や。いつかは状況が変わって、自分がその恩恵を受けるっていう態度や。ただトラブルを避けて、必要な資格、特に教育の資格を得続けたら、自分の立場を変えられるってな。
だからその世代のほとんどの人がそうしたんや。病院やなくて家で生まれたんや。病院も墓地も人種隔離されてたからな。子宮から墓場まで、私たちは人種隔離に直面してたんや。
それは単に分離されてるだけやなくて、教育や医療、仕事、発展の機会へのアクセスが制限されてるってことやったんや。だから大恐慌の影に生きてたんや。
当時のほとんどの黒人は、奴隷だった祖父母を知ってるか、まだ生きてる元奴隷を知ってたんや。だから教育を受けてない、最も脆弱な人々が最大の打撃を受けたんや。これは世代を超えて続くんや。
歴史を切り刻もうとする人がおるけど、神様は日々を作り始めてから一日も休んでへんのや。全ては繋がってるんや。
30年代の芸術の多くは、文学にしても視覚芸術にしても、大恐慌中に何が起こってるかを理解しようとする関心に根ざしてるんや。特に最初の頃、アメリカ人の25%が失業してた時期やな。これは膨大な数やし、人々の生活に壊滅的な影響を与えたんや。芸術家たちはその影響に反応してたんや。
1920年代から続いてる芸術家たち、アーネスト・ヘミングウェイなんかが一番ええ例やけど、ヘミングウェイは1920年代には個人について書いてた。個人の問題についてな。1930年代になっても同じような物語を書き続けたんやけど、スペイン内戦について「誰がために鐘は鳴る」を書いたんや。
「持つと持たざる」も書いてて、主人公が小説の中で恐ろしい出来事を経験した後、「一人の男には勝ち目がない」って結論づけるんや。集団の感覚、他の人々に頼る必要性みたいなものが出てくるんや。ヘミングウェイみたいな20年代からの作家の文学にもそれが出てくるんや。
スタインベックの文学にはもっと明らかやな。スタインベックは30年代の文化を代表する、ある意味では誇張して描く作家やったんや。
当時の歌で、少なくともブロードウェイの歌で、大恐慌を正面から扱ってるのは数少ないんやけど、はっきりと語ってる歌がある。「ブラザー・キャン・ユー・スペア・ア・ダイム」っていう強烈な歌や。イップ・ハーバーグとJ・ゴーリーが書いたんやけど、二人とも共産党員やったんや。
軽蔑してるわけやないで、ただの事実やねん。二人はセントラルパークで歌のテーマを考えてて、明らかにハーバード出身のアイビーリーグの男に出会ったんや。でもその男は運が悪くて、イブニングドレスを着てたのに、二人に近づいて「兄弟よ、10セントくれへんか」って言うたんや。
「ええタイトルやな」って思ったんや。そういう話や。いろんな面でええ歌や。素晴らしい歌詞で、もちろん第一次世界大戦のことも触れてる。第一次世界大戦で戦った兵士のことを歌ってるんや。
アメリカ政府は第一次世界大戦で戦った兵士たち、ドウボーイたちにひどいことをしたんや。戦争が終わったら賞与を約束したんやけど、その金をもらえるはずやったのに、一度も払わへんかったんや。
もちろん1930年代、フーバーがまだ大統領やった時に、有名なボーナス軍のデモがあったやろ。国中を行進して、ホワイトハウスの外にテントを張ったんや。軍隊が実際に動員されて、物理的に暴力的に追い出したんや。
この歌は直接そういう兵士たちのことを歌ってるんや。「カーキ色の制服を着てた頃、ああ、かっこよかったな。アメリカ魂に満ちて、50万の軍靴が地獄を進軍した。俺はドラムを叩く子供だった」
「覚えてへんのか、みんな俺のことをアルって呼んでたやろ。いつもアルやったんや。覚えてへんのか、俺はお前の仲間やったんや。10セントくれへんか」
すごく強烈な歌や。短調の東欧系ユダヤ人のメロディーで、本当に強烈なんや。もちろんハーバーグはその後、「虹の彼方に」みたいな、言うたら現実逃避的な歌も書いてるんやけどな。偉大な作詞家は全ての種類の曲を書けるんや。
「金の樽はないけど、ぼろぼろで可笑しくても、歌を歌いながら一緒に旅をしよう」って。人々はこの歌をすごく陽気に歌ってたんやけど、実際の歌詞はすごく切ないんや。暗い感じさえするんや。
誰も知らへん出だしの部分はこうや。「朝日が丘の向こうから顔を出すのを見てごらん。いつもそうやったし、これからもそうやと思う。誰かに対する気持ちがそんな感じなんや。誰かが俺に対してそう感じてくれてる。俺たちは愛し合ってる。そしてそれはいつまでも変わらへん」
そしてそこから「金の樽はないけど」って続くんや。「ぼろぼろで可笑しくても、歌を歌いながら一緒に旅をしよう。愛する人がおれば、一緒に頑張っていける。うまくいくさ」って。
実際、音楽からも感じ取れるんやけど、今まで気づかんかったわ。ショーの途中で、みんなに「これで前回の大恐慌を乗り越えたんや」って教えてるんや。
「どこに住んでるの?」「引っ越したんや、叔母さんの家の近くに」「ああ、叔母さんが住んでた場所から少し離れたとこやな」「うん、叔母さんは未亡人なんや。夫が亡くなったから未亡人になったんや」「株式市場が殺したんやないな?」「いや、株式市場に殺されたわけやないんや。9月に亡くなったんや。崩壊の前やな。すごく病気やったんや。45歳で糖尿病やったからな」「それはなんてことない。わしはクライスラーを110で持ってたんや」
エディ・キャンターは本当に人々の人生を変えた人の一人やったな。日曜の夜8時にラジオに出てたんや。大恐慌が最悪の時期、人々に仕事がなくて、テーブルに食べ物がなかった時に、「ジャガイモは安くなった、トマトは安くなった、今こそ恋に落ちるチャンスや」って歌ってたんや。
人々に恋を勧めてたんや。それはええことやったけど、彼自身もすごく厳しい時期を経験してたんや。家を失い、お金を失って、家具が家から運び出されてる最中にも、ラジオで人々を元気づけ続けてたんや。
あの人たちが数分間やってるのを見てると、世界中が希望に満ちてたな。
「おや、それを聞いてたら、忘れかけてたことを思い出したわ。今度、花嫁と花婿にプレゼントをあげる時は、必ずアラジンの灯油ランプをあげるんやで。結婚前は暗闇でデートできるし、しばらくしたらそれにも飽きて、ちょっと明かりが必要になるからな」
「ある男から手紙をもらってな。彼女と喧嘩したらしくて、『恋人じゃなくて友達がほしいだけ』って歌を歌ってくれって。歌ってあげるけど、ドルを賭けてもええ、すぐに考えを変えるで」
これは初期の放送の良い例やな。これはシンジケート番組って呼ばれてたんや。16インチのレコードで、片面15分やった。スポンサーがプレスして、契約してる放送局や、この番組を流したい放送局に送られてたんや。
明らかに田舎の人々をターゲットにしてて、まだ電気がない人たちにランプを売ろうとしてるんや。
これはロサンゼルスのココナッツグローブ・オーケストラの番組の一部や。ココナッツグローブは西海岸で一番有名なナイトクラブで、世界的にも有名やったな。こっちは上流階級の人たちが聴いてたんや。
「この魅惑的な音楽があなたのお気に入りのスターを魅了し、楽しいファンタジーの中で彼らの踊る足を導いてきました」
農場では、照明にランプを使わなアカンかった人もおったけど、ロサンゼルスや他の大都市では、大恐慌の最中でも人々は楽しんでたんやで。全ての人が困窮してたわけやないんや。もちろん、影響を強く受けた人もおったけどな。
ちなみに、わしの叔父さんはその頃の作詞家やったんや。スタンリー・ダマルいう名前で、1930年代の大恐慌の真っ只中のイギリスで曲を書いてたんや。完全に楽観的な歌を書いてたな。今でも歌われてる曲もあるで。「レディ・オブ・スペイン」とか「鳥のように歌おう」とかを書いたんや。
ある時、なんでこの歌を書いたんか説明してくれたんや。「パートナーと一緒に、アメリカの洗練された恋愛ソングには太刀打ちできへんって思ったんや。あっちの歌はいつも室内のソファで歌われてるみたいやったからな。だから外の世界について歌おうって決めたんや。『レディ・オブ・スペイン』みたいにな」って。
叔父さんが言うには、状況がひどすぎて、作詞仲間の何人かは…よく聞いてや…自分の下着を質に入れなアカンくらいやったらしいわ。下着を質に入れるって、これ以上低くなれへんやろ。
「険しい山々が、バーゴル峠を見下ろす古城の廃墟がある」
ハリウッドはその頃、小さな田舎町やったんや。素晴らしかったわ。大好きやった。映画は続いてたし、人々は他のものが必要やったんや。毎日の悲劇から心を逸らすものがな。仕事が見つかるまでは6セントで子供が、11セントで大人が映画を観れたんや。1セントの税金があって、劇場の前に立ってると、大人が15セント払って入る時に4セントのお釣りをもらうんや。
「ペニー硬貨一つくれへん?映画観たいんや」って頼むと、ほとんどの人は1セントくれたけど、時々太っ腹な人が4セント全部くれることもあったな。そしたらもう映画館に入れるわけや。
もちろん、中に入ったら下の方のドアを開けて、2、3人の友達を入れるんや。いつも大騒ぎになったな。ドアを開けると外からの光が入ってくるから、案内人が駆けつけてきて、入ってきた子供たちを探すんや。
それから予告編があって、今でもそれは残ってるな。昔の映画の行き方で残ってるのはそれくらいや。でもあの頃は、ローレルとハーディのコメディ短編とか見れたんや。連続活劇の1話を見ることもあったな。次の週に続く西部劇みたいなもんや。
ニュース映画も見れたし、漫画も見れた。旅行記もあったりしてな。色んな短編を見るのが当たり前やった。そして最後にメインの映画を観るんや。
30年代の映画は幅広かったな。極貧のB級映画から大作まであった。900ドルで西部劇を作る奴もおれば、「風と共に去りぬ」みたいに何百万ドルもかける大作もあった。スタジオは年間40本から60本くらい映画を作ってたんや。
スターは年に2本か3本、4本くらい映画に出れたし、監督も同じやな。今の映画監督は2、3年に1本しか作れへんけど、ジョン・フォードは1939年から1940年の間に6本もの大作を作ったんや。今でも名作と言われてる「若きミスター・リンカーン」「モホークの太鼓」「怒りの葡萄」「我が谷は緑なりき」「駅馬車」、全部短期間で作ったんや。
もちろんミュージカルもあったな。「ゴールドディガース・オブ・1932」「1933」とか。女の子たちが出てきて、みんな金髪で、バスビー・バークレーのダンス振付で、すごくゴージャスやった。
わしらはみんなこのファンタジーの世界で育ったんや。映画は大事やった。「来るべき世界」っていうH・G・ウェルズの映画を観たんや。1936年に公開されたんやけど、あの映画を観た後、よろよろしながら出てきて「未来は俺のものになる。俺が未来を作るんや」って言うたんを覚えてるわ。
「幸せの時代なんてないんか? 休息の時はないんか? 個人には休息はある。多すぎて早すぎる休息を死と呼ぶ。だが人類には休息も終わりもない。征服から征服へと進まねばならない。かわいそうな人類。何て脆弱で弱い小さな動物。もし私たちが動物以上のものでないなら、幸せのかけらをつかみ取り、生き、苦しみ、そして去るしかない。これが全てか、それとも宇宙か無か。どちらになるのか」
30年代の映画について誤解されてることの一つは、映画が現実逃避を提供したってことやな。確かにフレッド・アステアのミュージカルやコメディ、W・C・フィールズやボブ・ホープ、マルクス兄弟が現実逃避的な娯楽を提供してたのは事実や。
「ショーの内容は? 全部大恐慌のことや。それはリハーサルせんでもええな」
でも、大恐慌の現実を扱った映画もたくさんあったんや。ただ、そっちはあんまり再上映されてへんのや。かなり陰鬱な内容やからな。
「オズの魔法使い」の本と特に映画は、通貨政策についても扱ってるんや。デフレーション、つまりお金が足りないことについてな。「オズ」って「オンス」の略なんや。黄色いレンガの道、金本位制の問題、これはあの時代にすごく重要やったんや。
最初の部分の白黒のシーンはすごく暗いやろ。これが通貨政策に対する人々の気持ちを表してるんや。お金が足りないのは分かってたけど、天気みたいなもんやと思ってたんや。どうすることもできへん、嵐が来るのを耐え忍ぶしかないって感じやな。
主人公のドロシーは自分で道を切り開くんや。この悲惨な状況の中で、運良く少なくとも一人の魔女を倒して、もう一人を賢さで倒すんや。実際に魔法使いを手なずけるんや。つまりお金を手なずけるってことやな。これはみんなのファンタジーやったんや。
みんな30年代を映画製作の黄金時代やって言うけど、覚えといてほしいのは、30年代の偉大な映画監督たちは、サイレント映画で技術を学んだってことや。視覚的なストーリーテリングの技術をな。
わしの師匠のアルフレッド・ヒッチコックが言うてたけど、「トーキーの登場で、動く映像の芸術を失ってしもうた」ってな。トーキーが来て、より現実的になったんや。サイレント映画はほとんど夢のようにストーリーを見せてたけど、音が入ることで映画にリアリズムが出てきたんや。
ギャング映画やバックステージドラマに表れてるし、労働者階級の人々の物語も増えた。でも同時にお金持ちが出てくるファンタジーみたいな現実逃避的な映画もあったな。
「悩みなんてただのジョークや。タバコに全部詰め込んで、煙と一緒に吹き飛ばしてしまえ」
人々は映画と一緒に漫画を期待してたんや。ニュース映画は抜いてもええし、2巻のコメディも抜いてもええけど、漫画は必ずなきゃアカンかった。実際、1930年に「ミッキーマウスがないって? これはどんなプログラムや」っていう有名な歌があったくらいや。
劇場が漫画を上映せんかったから、その歌が流行ったんや。ディズニーはアニメーションを「ゴム管」みたいなクレイジーな描き方から、より現実的なストーリーテリングのスタイルに変えてったんや。他のスタジオも全部ディズニーの後を追ったけど、1930年代初頭、大恐慌の最中は、特にサイケデリックな感じやったな。アニメはめちゃくちゃ頭おかしなもんやった。リアリズムなんてまったくなくて、ストーリーもこの連中が思いつくままに作ってたんや。
短いアニメでもストーリーテリングはそんなに洗練されてへんかった。10年後にバッグス・バニーやダフィー・ダックのアニメを作る時ほどはな。1930年代初期は、ストーリーをどこかで始めて、外に出て行って、突然どこか別の場所に行くみたいな感じやった。
ただ思いつくままにストーリーを作って、自由な形で描いてたんや。意識の流れみたいなもんやな。
わしの最初の給料はディズニー・スタジオからやったんや。「バンビ」の制作に3年半携わったんやけど、理想的やなかったな。給料はあんまりよくなかったけど、仕事は大好きやった。
W.P.A.(公共事業促進局)のことを思い出すわ。S・マクドナルドっていう監督がおってな。わしの絵を買うてくれたんや。月給96ドルやったんやけど、油絵2枚と水彩画2枚か、リトグラフ4枚を納めなアカンかったんや。
それで多くのアーティストが飢えずに済んだんや。アーティストの繊細な指は肉体労働には向いてへんからな。音楽家やその他のアーティストに適した仕事を見つけることで、W.P.A.はアメリカの文化に大きく貢献したんや。
画家たちも公共事業計画を実際の、永続的な成果にするために貢献したんや。今日のアメリカの風景を描いた作品は、わが国の芸術史上最も実り多い時期の一つになるやろな。
キャンバスに描かれたものもあるけど、多くは学校や図書館、その他の公共建築の壁に描かれた壁画の形で残ってるんや。
政府が創造的な人々を雇って、公共の利益につなげるっていうアイデアを試したのは、サンフランシスコのコイトタワーが最初やったんや。本当にW.P.A.、つまり公共事業促進局がアーティストを雇うプログラムを立ち上げるパイロット版みたいなもんやったな。
コイトタワーの壁画制作に関わった26人のアーティストは、本当に先駆者やったんや。実験的な試みやったけど、うまくいって、それで全国に公共アートが広がっていったんや。
これは社会的リアリズムって呼ばれる芸術の流派なんや。この壁画のほとんどがそういうスタイルで描かれてる。社会的リアリズムは日常生活を捉えて、普通の人の物語を伝えることが目的やったんや。
当時のニュースやメディアが取り上げてたような、偉人や産業の大物の物語やなくてな。今でもそうやけど。公共アートを扱う時には、コミュニティを作り出す機会があるんや。それがサンフランシスコのアーツ・コミッションが長年にわたって壁画を依頼してきた理由の一つやな。
ここはルーシー・フラワー高校の玄関ホールや。この壁画は1938年から1940年の間にエドワード・ミルマンによって作られたんや。彼はW.P.A.のアーティストで、優れたアメリカ人女性たちについての壁画を作りたがってたんや。
同時に、メキシコの壁画運動についてもたくさん勉強してて、これを作る前の1934年には実際にメキシコに行ってディエゴ・リベラに師事したんや。だからこの絵のテーマを考える時、ここに見えるような神殿の中で、そういう社会的リアリズムを推進したかったんやな。
完成まで2年かかったんやけど、1年後に教育委員会が「悲惨で憂鬱すぎる」って言うて、白塗りにしてしもうたんや。この絵はシカゴ市で最も物議を醸した壁画やと思うわ。すごく重たい内容で、当時起こってた核心的な真実について語ってたからな。
重要なのは、アーティストは起こってることのバロメーターみたいなもんやってことや。彼らは何が起きてるかを記録して、創造的で想像力豊かな方法でその物語を伝えるんや。そういう哲学的で知的な創造性が覆い隠されるのは、本当に耐え難いことなんや。
1996年にこの部屋に入った時、真っ白やったんやで。この強烈な絵を復活させる方法を見つけるのに、何度もテストを重ねたんや。1997年のことやけど、魔法みたいな時間やったわ。この部屋全体を9ヶ月かけて復元して、お披露目式をしたんや。
この絵が包含してる歴史を明らかにすることが全てやったんや。だからこの作業に関わった全ての人にとって、すごく大切なもんやったし、今でもそうなんや。
30年代の芸術や文化全体に現れる主要なテーマの一つは、ヘミングウェイが最終的に行き着いた「一人では生きていけない」っていう考えやな。人は他の人を必要としてる、個人は打ちのめされるかもしれへんけど、そこから強くなれるかもしれへん…でもこの時代の芸術の多くは、政治的にも共感や思いやり、兄弟愛、集団行動の必要性に向かっていったんや。
ストライキでも社会保障制度の実施でもな。同時に、別の政治勢力からは強く反発されてたんやけどな。だから30年代は政治的にすごく二極化した時代になったんや。集団主義的な考えと、まだかなり強かった個人主義的な考えの間でな。
「あなたも、あなたも、あなたも、あなたも。新しい大統領ができたんや。彼は国にニューディールをもたらした。今度はあなたたちの番や。カードを握ってるのはあなたたち。あなたたちが配る番や。
あなたも、あなたも、あなたも、あなたも。肩を鋤につけるんや。彼は私たちが求めたものをくれた。今度は何かの形で恩返しをするんや。前に出て、大統領の後ろに立つんや。そして仕事を与えるんや」
フランクリン・ルーズベルトの成果は、大恐慌と戦うための道具を発明せなアカンかっただけやなく、何かをすることが正当やって人々を説得せなアカンかったってことを考えると、さらに驚くべきもんやな。
多くの人が、何かをすべきやっていうことに非常に懐疑的やったんや。ただ全てを台無しにして、最終的に自然と解決するのを待つべきやって考えてる人もおったんやで。
ルーズベルト政権に雇われたリーナ・ヒコックっていう女性がおってな。彼女は国中を回って、人々が経済的な困難にどう対処してるかをレポートにまとめる仕事をしてたんや。特に農業地帯や国のいろんな地域で見たことを報告してたんやけど、彼女が本当に言いたかったのは、絶望感が広がってるってことやったんや。
人々は無気力になってきてるって。ニューディールは、ある意味で「今までのように事態を放置するつもりはない、状況を改善しようとしてる」っていうことを人々に知らせる役割を果たしたんやと思う。それは多くの人々にとって大きな意味があったんやな。
家族みんなでラジオの周りに座って、炉辺談話を聴いてたのを覚えてるわ。ルーズベルトが「我々が恐れるべきものは恐怖そのものである」って言うのをな。
「止まれ、ドクター、ドクター、ドクター。あなたがドクターですね、大統領。不況を治す薬は何でしょう?」
「自信だ。この古い不況を打ち負かすのは自信だ。そうだ、それが我々の救いだ。説教しろ、叫べ、叫べ、自信を持て。ただ自信を持つんだ。目を覚ませ、目を覚ませ、開け」
「昨日は灰色の空だったが、今日は新しい日だ。みんなで新しい日を迎えよう。もう怖がることはない。みんなで仕事に戻ろう。新しい夜明けが来たんだ」
わしは思うんやけど、勝利するのは政府のおかげやないし、リーダーたちのおかげでもないんや。国民として、わしらにはビジョンがあって、そのために働いて、最後までやり遂げたからなんや。
合衆国大統領に感謝せなアカンな。彼の妻エレノアにも影響されてたと言えるかもしれへん。少なくとも指示されてたわな。コミュニティにこれまで以上の機会を与えようとしたんや。
「わしはアメリカ国民のためのニューディールを約束する」
ニューディールから、本当のディールを作り出せるんやないかな。
フランクリン・ルーズベルトは、この国で革命が起きるのを防いでる一番の要因やと感じてた人もおるんや。つまり、WPAやその他のプロジェクトで仕事を提供してくれてたから、もしそれがなかったら血を流すような革命が起きてたかもしれへんって言う人もおるんや。
当時はかなりの社会不安があったんや。ヨーロッパほどやなかったかもしれへんけど、仕事がなくて、お腹をすかせた人々がおって、ファシズムや共産主義を見てたんや。それがはしごを登るチャンスを与えてくれるかもしれへんって。
「うちのシステムに何か問題があるんやないか、ヨーロッパ式にせなアカンのやないか」みたいな感じやな。若かったけど、そういう政治的なことについて父と他の人たちが議論してるのを覚えてるわ。
ワシントンの政治のことやなくて、ファシズムか共産主義のヨーロッパ式にせなアカンのやないかっていう状況についてな。それが物事をうまくやる方法やって。
ニューディールは歴史的に大きな意味を持ってたけど、大恐慧を終わらせることはできへんかったんや。でも他のことをしたんや。ルーズベルトの頭の中にあった高度な政治的な計算の一部やと思うんやけど、この長引く危機の瞬間を利用して、一連の大きな改革を実行したんや。
経済全体の制度的な再編成をして、第二次世界大戦で経済が回復した時に経済を安定させ、その後半世紀にわたってアメリカ経済、さらには国際経済が驚くほど成長するための足場を作ったんや。
景気の変動は常にあるもんや。パニックになることもあるかもしれへん。でも大きな不況にはなってほしくないんや。つまり、生産が大幅に落ち込んで、そのまま低迷し続けて、回復に苦しむような状況はあかんのや。10年を無駄にしてしまうかもしれへんからな。
最近の日本の経験を見ても分かるように、今日でも比較的豊かな国でそういうことが起こり得るんや。だから不況を克服したって思い込んだらアカンのや。不況を避ける方法を学んだかもしれへんし、学んでへんかもしれへん。それについて議論すべきやと思うんや。
危機やったな。崩壊や…金融部門全体、銀行や証券会社が潰れるんやないかって恐れたんや。
失われた10年というのは、日本経済が極端に低成長だった時期のことや。一般的に企業はうまくいってへんかったんや。普通は大学を卒業したら大企業に入って、その会社が一生面倒を見てくれるもんやった。22歳くらいでもう人生設計ができるような感じやったんや。
終身雇用制度があったから、企業は中核の従業員を解雇できへんかったんや。だから多くの日本企業が1990年代の失われた10年にしたのは、中核の従業員、つまり終身雇用の従業員は維持したまま、新規採用を止めることやったんや。だから最初に影響を受けたのは会社員やのうて、大学を卒業したばかりの若者やったんや。あの有名な終身雇用を見つけられへんかったんや。
何かのコミュニティ組織に所属することは非常に大事なんや。家族かもしれへんし、会社かもしれへん、学校かもしれへん。日本の企業は実際、多くの社会保障を担ってたんや。政府よりも会社が担ってた部分が大きかったんやけど、失われた世代はそういうコミュニティに属するチャンスを失ってしもうたんや。
社会の安定や健全な成長、発展のためには、そういうコミュニティを再構築せなアカンのや。これが本当の課題や。でも答えは単に古いシステムに戻ることやないんや。会社の概念を再構築せなアカン。雇用や労働の概念を再構築せなアカン。これが本当の挑戦や。だから本当に破壊的な…創造が必要なんや。
今、はっきり分かるのは、日本で起こったようなことをアメリカでも避けたい、失われた10年を避けたいってことや。今の時点では避けられるかどうか分からへんけどな。正直言うて、必要なのは大規模な経済刺激策を継続的に注入することや。
問題は、それがどこから来るかってことや。アメリカ経済には4つの基本的な成長の源があるんや。経済成長の約70%は消費者から来てるんや。でも消費者は今、住宅価値が下がり、株のポートフォリオが下がって、10人に1人近くが仕事を失ってるんや。
だから短期から中期的には、消費者からの需要は期待できへんのや。仕事が戻ってくるまでは消費は経済を前に進めへんし、そこから回復は見込めへんのや。これが経済の70%を占めてるんやから、その大きな部分を他のどこかで補わなアカンのや。
他の3つの源は、企業の投資、輸出の成長、そして政府支出や。企業は消費者の動向を見るまで投資せえへんから、ニワトリと卵みたいな問題があるんや。輸出は少し増えてるけど、まだアメリカ経済全体から見たら比較的小さな割合やから、その小さな部分がアメリカ経済全体を引っ張るのは難しいんや。
最後に残るのが政府支出による経済需要の創出や。これはまさに大恐慌の時にやったことで、大恐慌以来、今ほど必要とされたことはないんや。
わしは思うんやけど、私たちは飛躍的に進歩するんや。前に跳躍するんや。ルールや言葉、真実の基準を採用して、それがうまく機能する。科学の世界では特にそうやな。うまくいくんやけど、突然それが機能せえへんようになって、世界中が崩壊し始める瞬間まではな。
徐々に変えることはできへんのや。氷山にぶつかるのを待つしかない。そしたら素晴らしいことが起こるんや。世界が崩壊して、私たちはそこに立って「本当にやりたいことは何やったんやろ? 私たちの世界は本当はどんなもんなんやろ?」って考えられるようになるんや。
この国の最も重要な資源の一つは創造性やと思うんや。それを本当に活用できたら、この経済的な困難から抜け出す答えは、議会や下院、大企業、連邦準備制度理事会から来るんやなくて、人々のガレージから来るかもしれへんのや。
持続可能な生活のヒントや代替通貨なんかもな。地に足のついた所で起こる重要なイノベーションがたくさん見られると思うんや。既存のシステムや時代遅れのシステムに満足できへん時に工夫したりイノベーションを起こしたりするのは、アメリカ人の生まれついた特性やと思うんや。
歴史的に見ても、多くの強い企業が経済の下降期に始まってるんや。大恐慌や他の不況の時にな。わしは投資銀行で週90時間も働いてたから、ああいうもんを立ち上げる時間なんてなかったんや。でも解雇されたら、スケジュールが空いて、「今がチャンスやな」って思ったんや。
今はどの仕事も手に入れるのが難しそうやから、人々は本当に自分の情熱のあるところを追求してると思うんや。「ここにお金がある」っていうんやなくてな。多くのパラダイムシフトが起きてると思うし、価値観のシフトも起きてると思うんや。
わしの希望は、それが長続きすることや。そうすれば、この景気の波の谷と山の間隔が長くなるんやないかな。でも人間って短期記憶やからな。特に状況が好転し始めると…
「ニューヨーク、世界の金融の中心へようこそ。ウォール街、アメリカ資本主義の心臓部へようこそ」
わしはジョージア銀行の元副社長やったんや。10億ドルの取引ビジネスの管理を手伝ってた。危機で多くの人が職を失ったんや。わしも職を失った。アダム・スミスの見えざる手に叩かれて、経済の別の分野に放り出されたんやな。
でもわしは今やってることにすごく満足してるんや。ウォール街のことを人々に教えて、自分の物語を語ることが大好きなんや。ある人は「ほら、レモネードを作ってる奴がおる」って感銘を受けるし、ある人は「ほら、トレーダーがツアーガイドに格下げされた」って見るかもしれへん。見方は二つあるんやな。
2年前、わしは金融業界に完全に浸かってたんや。大学卒業以来ずっとやってきて、大好きやった。でも時が経つにつれて、金融市場で起こってることを見始めた。本当に大きな崩壊やったんや。
そして実際にピンクスリップ(解雇通知)をもらって、解雇されてしもうたんや。よく母が言ってたのを思い出すわ。「大恐慌の時、農場が祖父母を救ったんや」って。彼らは他にも狂ったようなことをしてたな。密造酒を売ったり、ヨーロッパから来た人たちに余分な部屋を貸したりしてな。
でも常に頭を使って、お金を稼ぐ方法や貯める方法を考えてたんや。金融では一生懸命働いたけど、今はそれ以上に働いてるんや。基本的には無報酬やけどな。将来的に何かを得られることを願ってな。
これは知性と創造性への回帰や。若い起業家たちが社会的意識を持ったビジネスを始めてるんや。みんなで協力して、仕事をどうやって成し遂げるか、予算のないファッションショーをどうやって成功させるかを考えてる。
「この人はこの露出が必要で、わしはこれが必要や。どうやったらこれを実現できるか考えよう」ってな。面白い時代やし、その一部になれるのは素晴らしいことやと感じるわ。
わしの夫のファンはすごくケチやってん。一度、子供たちとわしをコーヒーとドーナツに連れて行ったんやけど、子供たちは大喜びやった。初めて献血したからな。ちゃんとしたジョークやで。
振り返ってみると、大変なことが起こったように見えるかもしれへんけど、それは私たちを正しい軌道に戻すために必要やったんやないかな。結局のところ、私たち一人一人が人類の進化の一部なんや。技術を携えて、宇宙に向かって急いでるんやから。
あの時代を乗り越えた経験が、あなたを支えてくれるんや。強くしてくれる。試練の炉で鍛えられたんや。大恐慌は人々を打ちのめしたから、「見てみ、この人たちがどうやって立ち直って、何かを成し遂げたか」って言うのは素晴らしいし、ロマンチックなことやけど、そうできなかった人たちもおるんや。
大恐慌にひどく打ちのめされて、それが彼らの考え方や周りの人々、家族に何年も何年も影響を与え続けたんや。だから、続けていく勇気がないと…大恐慌の初期の日々は多くの人を形作って、誰かになる勇気と強さを与えたんや。
わしは強くなるとは言わへんな。自由になるって言うわ。全てが終わった時、より自信を持てるようになる。生き残る能力に自信を持てるようになる。その部分は本当やと思う。でも、わしらの信念を強くするわけやないんや。普通はそれを壊してしまう。
家族制度を強くするわけやないんや。普通はそれを傷つける。経済システムや政治システムを強くするわけやないんや。普通はそれを壊してしまう。そういう意味では強くなったとは思わへん。
わしが思うのは、人生について、真実を判断する方法について、互いにコミュニケーションを取る方法について、誰を信頼するか、信頼せえへんかについて、自由に新しく考えることを強いられたってことや。これは啓発の瞬間やと思うんや。
普通は吐き気を伴うけどな。私たちはよく自分たちの意思に反して救われるんや。偉大な歴史家のアーノルド・トインビーが言うてたんやけど、彼は神秘主義者やのうて、すごく実践的な人やったんやけど、彼の生涯にわたる歴史研究から導き出した結論は、「人間の問題の水たまりが完全に凝固しそうになるたびに、神の指が降りてきて、かき混ぜるんや」ってことやった。
時々そう感じるんや。あの時代の素晴らしい点の一つは、お金がなかったってことやな。上位5%か6%の人たちは別やけど、彼らは窓から飛び降りて自殺してたからな。耐えられへんかったんや。でもわしらには耐える方法があったんや。
これもまたアメリカ人生の一部やな。アメリカンドリームは、私たちが耐えられるってことや。だってもっと良くなるって分かってるからな。

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